diary

地方の地方 地方の中央

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Lake Biwa

1999年に滋賀県に移り住む。7年経った周囲は見違えるほど変わった。「見違えるほど変わった」感覚も大阪へゆけば「ゆったり」になる。時間の体感速度に差異がある。滋賀を司る人々がそれに気づいているのか気づいていないのか、私は知るよしもない。しかし、それらの人々は中央の模型を模索する。そもそも地方は中央を羨望している(かもしれない)が、中央にはすでに地方はない。地方だけが中央を「持っている」。だから地方の景色は中央化してゆく。地方のなかに中央が生まれ、地方のなかに地方を造る(意識づける)。是非ではない。ただそうなってゆく。自分たちの時間軸にあわせた個体は何かを考えはじめたとき、体力が疲弊している。銭をかけて造ったものを銭をかけて壊して自然を造る。その銭すら無くなってきた。一意から個性を求めず、多様性から生存を模索する。明治人のおかげで「日本人」という単語に奇異の感を抱かずにおられる。先人が払った努力に敬意を表する。と同時に、「日本人」が奇異に映った(かもしれない)先人たちが昔持っていた意識、「私は大阪人である」という意味を私はもっと涵養してもよい時期にさしかかっているのかもしれない。そして矛盾する。「私は日本人でも大阪人でもない」を問えるのか?それが”ローカル”の「中央」を羨望しない”グローバル”の視座なのだろうか。

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