僕が歩く道で使う「こだわり」

「僕が歩く道」を毎週視ている。レインマンのDVDも視た。いまだに視てしまう。「隣人が自閉症」という方々からすれば、僕が歩く道もレインマンも理想と希望がカウントされた描写なのだと愚考する。私の周りには自閉症やその兆候をもつような人がいない(私が気づいてないだけもあるだろう)。でも理解したいから見聞する。なぜ理解したいのかを自問すると小学生のときにからかわれた一言に行き着く。

小学生の頃から紙を半分に折ったり四つ折りにするとき、完全にぴったりになるまで何度も何度もやり直してしまうこだわりがあった。で、その仕草を視て、先生だったか、何かの機会で会った人だか覚えていないが、「そういうことするのは自閉症の傾向があるな」と言われた。自閉症の意味がわからなかったとはいえ、口がいくぶん右につりあがった笑みと音感から「ほめられているわけではない」と受け取った記憶がある。もちろん今からふり返っての記憶だから造成されていると思う。

それ以来、自閉症についてどういうものなのだろう?という疑問が残っていた。症状や学術的な言説は私には皆目わからない。想像できるとしたら、現場はどうしているのか?だけである。それも想像だ。それしかできない。

そして昨日、僕が歩く道で「こだわり」という台詞を耳にした。「こだわり」は辞書を引けばわかるように、どちらかというと否定的な意味合いが込められている。今は肯定的な表現や美意識を表象する、あるいはブランドを心象するときに使われている。いつ頃から使われ出しのかは不案内であるため知らない。

ただその台詞を聞いたとき、原意をつかんだ上で使っているのだろうと解釈した。前後の映像と文脈から容易に推察できる。今の「こだわり」の使い方について、「それはおかしいだろう」と指摘する人もいるが、私は賛同しない。時とともに使い方が変わるだろうし。

むしろ、原意を咀嚼したうえで使っているのか、「今の使い方」だから使ったのかそちらが気になる。自戒をこめると、言葉を使うときできるかぎり前者でありたい。それが私のこだわりか。