Eさんのコメントに頭を垂れる 他者からの問い

自分の小さな「箱」から脱出する方法Eさんからコメントをいただいた。そのコメントから得られた気づきにそっと頭を垂れる。こういうコメントを頂戴できるとブログを書き続けていてよかったと安堵する。Eさんの存在に感謝する。Eさんのコメントを読んで感じた私の父、そして他者について厚顔無恥を承知で少し書きつづる。

詳細は割愛するが、父は大学卒業後、なかば浪人のような生活を10年ほど送っていた。学生結婚で生まれた私は日に日に追いかけてくる。食い扶持に困った父は33,4歳の頃、某財閥系企業の中途採用に応募した。

他方、ものごころついた私はというと、「家にいない父」「会話をしない父」「一緒に食事をしたことがない父」があたりまえと錯覚していた。だから彼女や友人と家族の話になったとき、「父が家にいる」という描写を想像できず、会話がうまくかみあわなかった。

その後、私が大学へ進学して若干引きこもり状態になったあたりから父を誤解しはじめた。「母は幸せなのだろうか?」「家族とは何だ?」と考え、父から距離を置いた。ただ、距離といっても目に見える(会話をしないとか一緒の時間をすごさない)ようなシロモノではなく、ただ心の中で「なんなんだろうアノ人は一体?」的な空想的距離。

父はもともと「ここ一番」のときだけ言葉を口にする人だった。だからそれまでも、「私が商業高校に進学したい」と言ったときと、ふざけた浪人生活を過ごしていたときの2回だけ距離が「密着」した。

現在に至り、ここ10年ほどかけてようやくほんの少しだけ「なんなんだろうアノ人は一体?」の糸口がつかめてきたような気がする。常に家にいない父が、無言で「オレが何をしているのか自分で考えろ」と問いかけていたのだと都合良く解釈している。そして、母は「口にすること」で問いかけてきていた。その問いに私は気づいていなかった(今も気づいてない)。両親は他者である。Eさんも他者である。その他者から「私」がどこに着地するのか気づかせていただける。

団塊世代の両親と今とでは育児の環境が違うのかもしれない。だからパズルのピースをはめこむように、私の経験を今の人たちにトレースしない。

ただ愚考するに、問いは他者が運んでくれる。両親やEさんが私に問いを発見させてくれる。問いは自分の中にない。問いが問いであるのは、「そう、その問題を解決していくゆくのが大切なんだ」と他者が承認してくれなければ、問いではないと思う。その承認を得るために対話がある。対話は発話だけでなく無言にも存在するのではないだろうか。

子どもの時、わからなかったことすねたこと、青年の時、理解できなかったこと釈然としなかったこと、それが歳を重ねると得心する機会に遭遇できる。それが老いなのかもしれないと身構える。その機会をもたらしてくれるのが他者からの問いではないだろうか。そして、愚考に愚考を重ねるなら、他者は「今」しか問いかけていないのではない。「昔」からずっと「今」も、そして「これから」も問いを運んでくれる。

Eさん、ほんとうにありがとうございます。稚拙な文章ではありますが、本エントリーをコメントの返信とさせていただきます。ご容赦を(笑)