ホームページは自分をアウトプットする

事故死児童を掲載、教師のHPやブログ「放任」を読んで違和感が沸々。この記事はわざと掻き立ててるのか。

東京都羽村市の市立小学校に勤務する渡辺敏郎教諭(33)が交通事故死した児童の写真や中傷文を自らのホームページ(HP)に掲載していた問題で、都内の区市町村教育委員会が教職員のHPやブログなどの活動を把握していないことが8日、産経新聞社の調査で分かった。「個人情報」「表現の自由」などが主な理由だが、問題発覚を受けて研修会開催や内規作成を検討するなど対応に苦慮している。

「個人情報」や「表現の自由」といった文言に首をかしげる。建前は法律、なるほど大人の反応。私はというと、「どうしてこの教師は愚行(と指摘するのもバカらしい)を重ねられたのか」が頭によぎった。愚行の根っこは何だろう。「放任」が解だとしたら「管理」すれば解決できる……….のか?

ホームページは「自分をアウトプットする」ための道具だと私は思う。特に、ブログのように「書く」ホームページは内観させられる。「相手」と向き合う。自分が何を考えて、それに対して意見を持っているのか。そして、自分の思考を相手に伝えるにはどうすればよいのか。さらに、それを読んだ相手からどのような反応があり、反応に対して用意している見解は何か。これらを「書く前」に慮る。

「想像力」が課題。

ホームページ以前、インターネット有史以前にも「書く」はあった。問題の教師は私と同世代。だから心当たりがある。「書く」が疎かになっていたのではないか。私はそうだった。「感想文」が宿題であっても、「日記」は宿題ではない。継続して「書く」を前提にした課題は与えられない。小論文は選択。それよりもいかに上手に話すか、立て板に水のごとく話すかが重宝され、「読み・書き」が手薄になった。極論、技巧を身につける努力によって「話す」は取り繕える。現に、中身がない私に3分間スピーチを喋らせば、うまいと評価される。中身ではなく、見栄えに視線がそそがれる。わかる人が聞けば一刀両断、見抜ぬくことをカウントしない。

「話す」をぞんざいに扱うわけではない。ただ、私は「話す」とき、案外考えずにしゃべっている。後に残らない気軽さも相まって脊髄反射も多い。ICレコーダーに録音した自分の会話を後から聞く(習慣化するとなおわかる)。レコーダーから聞こえる私の脈絡のない会話に顔から火が出っぱなし。

他方、「書く」は問屋が卸さない。10代の間、日記をつけていた記憶をたどると、ありのままの感情を書き殴っていた。とはいえやっぱり<10代の私>を黙思していた。今やブログともなると自分だけではない。「読み手」がいる。「読み手」がいるとは想像できす、相手の反応を想像できない。「想像力」の欠如。それが、ホームページによって<私>と向き合い露呈した。そして、「自分には想像力が欠如している」ということを自覚していない。アクセス数稼ぎの「釣り」だとしたら欠如以前。

ホームページの制作をしていると如実に表れる。リアルの事業体とバーチャルのホームページがなかなか合わさらない。なぜか?

あっ、「時間がない」「いそがしい」「広告だから」といった回答は除外です。