伝える裏側にあるもの

be-yanさん『はまりそうです…』に深謝。27日、ウェブサイトの打ち合わせに京都拉麺小路を選択。理由は社外でミーティングする柔らかさを味わってみたかったので。社内でない場所。扱いにくい空間。ホワイトボードもなくインターネットもつながらない。ホワイトボードの代替品を探し、手持ちの道具だけを使って表現する。もちろん人々が眼前をスルーしていく。ネットではなくリアルに接続。近くで誰かが物を買い、隣人が何かを話している。その空間にはデザインやコンテンツのヒントが隠されている。

一人なので忘年会がない。開業したときから「忘年会できないのが唯一寂しいなぁ」と感じていた。というわけで、この日は、be-yanさんとTさんをこけこっこへ強制的勧誘。まぁ、たまにはこういう我が儘をのんでもらうのも役得かと独断す。

be-yanさんと打ち合わせをしているとき、その後、こけこっこで鳥と酒を喰らっているときも感じる。「なぜ言葉がとぎれないのだろう」と。be-yanさんと私のうまがあうというレベルではない。何か共通の話題を持っているわけでもない。専門用語を駆使して経営について語りあうわけでもない。ただただ、対話するとはどういうことかということを念頭に置き時を過ごす。

したたかに酒を呑みながらふと浮かぶ。「ああ、伝えたいのだなぁ」と。be-yanさんは私に対して、納得させようとしたり、次の日から考えを改めさせたりしようとしない。ドグマでない。話題を好悪で判断したりもしない。己の言説とは違うから耳を傾けないわけでもない。排除しない。つまり利害に直結する「感情」を俎上に載せない。

私もそんな気は毛頭ない。ひたすら「今、私は何を考えているのか」ということを言葉に翻訳する。be-yanさんの翻訳を私は誤解する。そんな作業がつづく。なぜがよぎる。どうしてbe-yanさんは差異と多様を認め凛としているのだろう?

もう一度、目の前を認知しようと努めた。私たちの俎上には、「他者に提供できる価値とは何か」が載っている。少し得心した。be-yanさんの主語は"オレ"ではない。"オレ"がに「前置詞」が付いている。それは、be-yanさんを囲む人々(家族、友人、顧客…..)。その人たちに自分の存在価値を提供するには何をすればよいのか———-を探求している。だから"「他者から問いかけられている」オレ"が主語であり、その"オレ"が、私に伝えてくる。二重の他者が存在する。眼前のbe-yanさんとその向こう側にいるbe-yanさんでない人々。そんなふうに誤解した。

私はbe-yanさんの足下にも及ばない。ゆえに琴線に触れる。「オレが思う」ことを伝えているのではない。それは「オレがしゃべりたい」から口にするのではない。「他者を承認したいオレが伝えざるを得ない」から言葉に変換する。ことその他者を顧客に限定すれば、be-yanさんは顧客を常に考えている。オレではない。だから言葉がとぎれている「暇」はない。顧客を考えれば考えるほど。顧客の数だけオレがあるかのようなbe-yanさんに圧倒される。それが多様性と差異なのか。

肯定も否定もない。ずっと誤解しつづけて正解がない限り、be-yanさんの「ほんとうのこと」は私にはわからない。私は言葉を受ける。そして「承認しましたよ」という意味しか伝えられない。その先は私がコントロールできる事象ではない。しかし、「伝える」行為がないと承認すらできないと今は愚考している。

他者から問いかけられ、それに応答しようともがけばもがくほど言葉が紡ぎ出されるのではないか。理路整然と話したり、煌びやかな言葉に彩られる必要はない。もしかすると、己の中ですでに「誤訳」しているかもしれない。

「共有」は何から生まれてくるのか?

この問いの出発点に立たせてもらえたbe-yanさんに深謝。