review

[Review]: 読書について 他二篇

Leave a comment

読書について 他二篇 (岩波文庫)

多読をレビューしたからにはこちらも。極性を読む。それがダブル。二重が己に内包し、支離滅裂を繰り返したのち収斂する。頁を繰るたび、「他人の頭で考えず、自分の頭で考えろ」という声が19世紀から聞こえてくる。

読書は、他人にものを考えてもらうことである。本を読む我々は、他人の考えた過程を反復的にたどるにすぎない。習字の練習をする生徒が、先生の鉛筆書きの線をペンでたどるようなものである。だから読書の歳には、ものを考える苦労はほとんどない。自分で思索する仕事をやめて読書に移る時、ほっとした気持ちになるのも、そのためである。[…]ほとんどまる一日を多読に費やす勤勉な人間は、しだいに自分でものを考える力を失って行く。

『読書について 他二篇 (岩波文庫)』 ショウペンハウエル P.128

著者はショウペンハウエル(1788-1860)。新書がトレンドである現代と19世紀、出版数は違えど、風景は変わらない。19世紀、人々は「時代遅れにならない読書法」に励むべく、いつも”新刊”を読んで、会合の話題に乗り遅れないように腐心した。新刊は続々出版された(らしい)。が、それらは時代のフィルターに濾過され溶解した。そのまま現代にスライドすればむべなり。

他人から寄せ集めた体系を糧にする人は、「すべてをあますことなく」語り、相手に倦怠を覚えさせる。少量の思想を伝達するために多量の言葉を使用する。多読のテキストを脳内でコピー&ペーストしているにすぎない。他方、自ら知の体系を構築しようと彷徨している人は、多量の思想を少量の言葉に収める。

「良書を読むための条件は、悪書を読まぬことである」「読書に際しての心がけとしては、読まずにすます技術が非常に重要である」—–ハウエルの舌鋒するどい皮肉は、他人の頭を借りても「考えられない」私に突き刺さる。『読書について』の中に収録されている『思索』を読んで、「愚者も自分の家の中では、他人の家における賢者より物知りなり」を自覚した。愚者どころか、愚者になりきれぬ自分。

眼前に見知らぬ風景が広がっている。そこに先人がたどった道と足跡が残っている。私はその道を歩いている。が、「見知らぬ風景」を見落としてしまう。それよりも、道の向こう側にたどり着けた、「歩行」できたことに満足してしまう。先人の歩行者が途上で「何を見た」のかを知らない。自分の眼を用いなければ見ることはできない。

あらゆる時代、あらゆる国々には、それぞれ比類なき高貴な天才がいる。ところが彼ら読者は、この天才のものさしをおいて、毎日のように出版される凡俗の駄書、毎年はえのように無数に増えて来る駄書を読もうとする。その理由はただ、それが新しく印刷され、インクの跡もなまなましいことに尽きるのである。このような駄書はいずれ二、三年たてば、打ち捨てられ、嘲罵される。[…]人々はあらゆる時代の生み出した最良の書物には目もくれず、もっとも新しいものだけをつねに読むので、著作家たちは流行思想という狭い垣の中に安住し、時代はいよいよ深く自らのつくり出す泥土に埋もれて行く。

『読書について 他二篇 (岩波文庫)』 ショウペンハウエル P.136

It\'s only fair to share...Tweet about this on TwitterShare on TumblrPin on PinterestShare on Google+Share on Facebook

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。