メディアが警察に沈黙する不気味な仕組み

第一報が報じられてから新聞各社のサイトを訪問している。が、あまりの沈黙ぶりに悪寒する。私は、一報にふれたとき、「何かが破裂した」と感じた。まれに襲われる。破綻した感覚。今まで暗黙の上に成り立っていた社会の約束事がやぶられたと感じるときに襲われる。自分の思い過ごしであるのは十分承知している。

警視庁は21日、立川署地域課の友野秀和巡査長(40)=東京都あきる野市瀬戸岡=が、国分寺市東元町にある知人女性(32)のアパートで、拳銃(けんじゅう)で胸を撃って自殺したと発表した。女性も胸と腹を3発撃たれ、死亡。友野巡査長は勤務中に行方が分からなくなり、発見時も制服姿で、拳銃は友野巡査長に支給されたものだった。女性は立川市内の飲食店勤務とみられる。警視庁は無理心中とみて、動機などを調べている。

via: 無理心中か 警視庁巡査長が知人女性を射殺後、拳銃自殺

しかし、だと思う。

日本は銃規制された社会(もちろん闇では大量に流通している)であり、一般市民は入手しづらい。賛否の議論はあるだろうけど、自衛の武器を放棄している。そのなかで、唯一、公権力から承認されて武器を所有するのが警察官のはずだ。その警察官が武器を行使した。殺人として。公務でもなんでもない。単に己の欲望のために、公務中に国民を守る武器を行使して市民を殺した。今、流れている報道では、弾は床にめりこんでいたという。相手の女性を寝かせ、上から胸と腹を撃ち、その弾が貫通したことを意味する。

無理心中か?と推測し、自殺したからとりたてる必要がないとの判断か。いまだに肩書きで記されている。他の殺人であれば容疑者呼ばわりにもかかわらず。だとしたら、焦点はそこではないと私は思う。人を殺せる武器を所有した権力が平然と人を殺した。それを論じるメディアは本邦にいない。

事件が発生したとき、メディアは警察と検察から情報を取得する(参照: 官僚とメディア)。だから、その両者に対して「貸し」をつくっておくというスタンスはひとつの戦術かもしれない。あるいは、両者を刺激して今後の報道に支障がきたすとまずいからという配慮か。

が、そのいずれも、己の保身でしかない。この事件を堂々と追求して、権力が武器を所有する意味を問わずして報道の責務を果たしているといえるのか。翌日の社説はどこもとりあげていない。

その沈黙に背筋が凍る。

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