批判が社会を喰い尽くす

大阪府の救急6病院が撤退 受け入れ不能問題が影響か

救急患者が複数の病院に受け入れを断られた末に死亡するケースが相次いだ大阪府内で、府が指定する「救急告示病院」270施設のうち6カ所が、今年に入って救急部門から撤退していたことがわかった。医師不足から夜間・休日の救急態勢を維持できなくなったのが主な理由。特に府南部で救急病院の減少が目立っており、患者の収容先探しが一層、困難になる恐れもある。

マスコミの方々はわかっているはず。「自分たちが批判すればするほど市民に悪影響を及ぼす」と。まさか、「批判すればするほどシステムは効率的に改善され市民に還元できる」と誤解していまい。もし誤解しているなら確信犯。

知識人は口々に「医療」を批判する。「人」を批判していない、「組織」を批判しているという自負。「公器」であればあるほど批判を強める。

年金もしかり。「年金制度は崩壊している」と電波にのせる。電波にのせられて「風評」はそのまま受け入れられる確率が高い。「風説の流布」になるわけもなく、若者の身体をつきぬけ、「ほらね、また年金納入率が下がったでしょ」と誇らしげ。よもや自分が「年金制度を崩壊させている」とは夢にも。

「医療」も「年金」も電波にのせて意気揚々と語る人は「再建策」を提示しない。「それを考えるのは公器だ」と言わんばかり。

批判=改革の信仰

医療、学校、役所といった公器を批判すれば、その批判によってシステムの脆弱は改善され効率が向上し利益を享受できる。だから我々の怒りは正当だ。その明確すぎるロジックをもって「モンスター」は学校や医療の現場へ足を運ぶ。

この批判する人たちは共通している。「組織」のなかに「人」がいるという前提を知らない。「組織」を改善しようと勤しむけどそんな「組織」はどこにもない。人が組織というラベルをしょってるだけ。組織そのものが「意味」をもってシステムを作動させているのじゃない。それを知らず「組織」を攻撃、当の組織は何ら変わらず、「中の人」が抜けていく。そして、「組織」は残る。

「私が批判すれば、”私以外”の人がシステムを健全化させる」という当事者意識の欠落。

批判のテンプレート化

そしていまや「批判」はテンプレート化され、誰でも利用できるようになった。アクセスフリーの批判。

批判の構造は、批判される「対象」があってはじめて成立する。「対象」というのは「受け止める人」。「組織」じゃない。なのにその「批判を受け止める人」を再生産する力を「公器」は失いつつある。危機は公器の「内部」にまで浸透している。「公器」の中の人がひとたび公器から抜け出したら批判する。仕事でクレームを受ける人が余暇でクレームをつけるように。

眺めてみたい。社会の成員が「批判する人」になったとき、「何を」批判するのだろう?


Comments

“批判が社会を喰い尽くす” への1件のコメント

  1.  はじめまして。私は木村アンパンマンと申します。私は現在慶應に在学中のブロガーです。ドイツの社会学者ニクラス・ルーマンからメディア論者ノルベルト・ボルツへと継承された、徹底的に構成主義的な社会システム理論を軸とした上で、作為的に「ポスト・ヒューマン」を論じています。この視座から考えてみると、Fujinoさんの見解とは別の見解を提起することもできますので、Fujinoさんに投げ掛けてみます。私が投げ掛けたいのは、「組織」よりも「人」を重視することに必然性はあるのかということです。

     フランクフルト学派たちが好むような批判理論の盲点は、<批判か肯定か>という区別を<無批判的に>受容してしまう点にあります。真に批判的な姿勢を貫きたいのならば、批判と肯定という区別それ自体にも懐疑的になるはずです。決して自分とは違う見方をする論者を肯定的だとか冷笑的だとして足払うことはないでしょう。この<無批判的>な姿勢を盲点として等閑視することで、彼らは批判を継続できるのです。逆に言えば、批判的な姿勢に懐疑的になるということは、逆説的にも批判的な姿勢として包摂されてしまっています。だからこの問題はデリケートです(1)。

     Fujinoさんは、批判は<批判される「対象」>がいることで初めて成立すると仰います。「対象」とは、「受け止める人」である、と。しかし、私見によりますと、マスメディア・システムはまだまだ十分「受け止める人」を構成しているのではないのかと思うのです。社会システムの構造的な複雑性をマスメディア・システムという単一のシステムが処理するという場合、そこには機能的な単純化が伴います。理由は簡単で、<マスメディアごとき>に全体社会の複雑性の全てを理解することは不可能だからです。だからマスメディアは、マスメディアなりの認識論から複雑性を選択的に縮減していきます。視聴率や情報価値が、この選択的な縮減におけるキー観念となるのです。

     これは私のブログで作為的に取り上げていることなのですが、マスメディア・システムが複雑性を選択的に縮減する場合、そこでは形式的な人格が指標となっていると思われます。要は、人間中心主義者や道徳主義者たちが未だに蔓延っているからこそ、社会問題の複雑性を<人格か非人格か>とか<人間的か非人間的か>とか<道徳的か非道か>という短絡的な問題に縮減しているのです。

     たとえばこの関連から観ると、犯罪者やテロリストたちは、道徳が大事だと思う視聴者の「面倒を診ている」と言えるでしょう。視聴者たちは、犯罪者やテロリストから活力を調達しているのです。すると、たとえば眼前の複雑な政治的問題ならば、汚職政治家や無能政治家に対し「失格だ!」と奮起することで、選択的に単純化されます。複雑な法的問題ならば、犯罪者を槍玉に上げることで選択的に単純化されます。ナルシスト・ヨロシク、自分が永久に罪を犯さないと確信する視聴者ならば、死刑制度を賛美するでしょう(笑)マスメディア・システムは、こうした視聴者の短絡思考を逆推論的に観察することで、視聴率や情報価値を判別しているのです。政治システムや法システムの構造に向けられた<国民の怒り>よりも、人間個人に向けられた<国民の怒り>を認識論的に構成することで、複雑性の縮減を遂行しているのです。

     システムやプラットフォームが如何にして駄目なのか?を問うよりも、誰が悪いのかと槍玉に上げる方が、簡単でしょう。道徳主義者やヒューマニストが「人」の話題でその場を取り繕うためには、非人格的(あるいは非人間的、非道的)な犯罪者やテロリストたちに依存するしかありません。人間と非人間は地と図の関係。非人間を潜在化させない限り、人間を顕在化することはできません。逆もまた然りです。これを前提にした上で作為的に申し上げますと、「人」を度外視する「人」を批判することには、ある種の自己言及的パラドクスが伴います。「人」を包摂したいならば、「人」を度外視する「人」を排除しなければなりません。両者は地と図の関係だからです。しかし、「人」を度外視する「人」もまた「人」であることに変わりはありません。では、そういした「人」であることに変わりはない「人」を排除しようとする、「人」を包摂する「人」は、果たして「人」として肯定できるのか。

     「人」を批判することも「組織」や「システム」を批判することも、圧倒的にピースミルな機能的単純化に過ぎません。マスメディアの認識論的な方向付けを真に受けて批判することにも、知識人の言説の方向性を鵜呑みにすることにも、盲点は伴います。方向付けが一つとは限らないからです。こうしたことを前提とした上で、Fujinoさんにお訊きしたいのは、次のようなことです。「組織」よりも「人」を重視することにはどのような動機付けがあるのでしょう?私はそこに興味があります。