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Re: 批判が社会を喰い尽くす

comment 1

批判が社会を喰い尽くすコメントをいただいたので一読して吃驚した。私ごときでは回答できない問題提起。ただただありがたいなぁと感謝。少しずつ少しずつ自分で考えているので、コメントされた方が注釈している『意味に餓える社会』を知らなかった。管理人さんの問題提起でまたひとつ考えることがふえた。それがとてもうれしい。答えは何年先になるか。辿り着けないかも。どうなるか何もわからない。

管理人さんは慶應義塾大学に在学とのこと。ステキなテキストを書くなぁと感じ入った。私からすればはるか高度な文章を書いていらっしゃる(“はるか”もおかしいな、どうも形容詞がしっくりこない)。管理人さんの知性は、この先もいかなる言葉を紡ぐのかとワクワクしてしまう。

次の文章に震えた。

情報交換や情報収集に希望が無いとすれば、次に考え得るのは意見交換や議論です。しかし、インターネットに専門家に対する非専門家、知識人に対する大衆(?)が包摂されている以上、自分自身が望むような水準(レベル)で意見交換や議論を展開していくことは、困難極まりありません。

何故か。<複雑高度>な寄与を、<単純>化することで、<万人共通>の事柄として取り扱うことが、不可能だからです。複雑高度な現象を語るには、素人や非専門家に退場して貰う必要があります。単純な話し合いで事を済ませたいのであれば、専門家や知識人に黙って貰わなければなりません。万人共通で標準化したいのであれば、複雑にも単純にも偏っては駄目です。

via: 「無駄話」としてのブログを。 – ポスト・ヒューマンの生命デザイン

今回の問題提起は<複雑高度な現象>だから素人の私は退場しなくちゃならない。私と管理人さんとの間にあるのは能力と現象の差異。いや、差異は失礼。能力の落差であり高低だ。ひとつひとつの単語の意味は理解できる。でも単語と単語とつなげる文章になると暗闇に入り、ましてや段落になると世界もなくなる。でもそれが他者なんだとうれしくなる。他者がもたらす「わからない」にふれたとき私が目覚める。

レヴィナスの「境界を接していない」という物言い、そして、<他者>の異邦性とは<他者>を<自我>、私の思考、私の所有物に還元することの不可能であり、それゆえ<他者>の異邦性はほかでもない私の自発性の審問として、倫理として成就されるとは、今回のような経験を指すのかも、とひょっとしたら一割ぐらい理解できたりしてとほくそ笑んだ。

管理人さんという他者から他の私がやってきた。他の私が私を突き刺したとき、私をながめる。でも、その私を眺める私は?

タマネギの薄皮をはぐように一枚一枚をはぐ。無限がぱっくり口をひらいている。いつか皮はなくなるはずなのに。でも、その私すらも「わたしが生きていようといまいと、<わたしはある>は意味作用をおこなう」私じゃない。

今の私はやっぱりヒトから目が離せない。

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1 Comment

  1.  私のブログ記事がFujinoさんにショックを与えてしまったとしたら、私は次のような処方箋を与えたいと思います。

     それは寄与とテーマの差異です。寄与というのはドクサであり、意見のような代物。テーマというのは、文字通りの意味です。そして、ここで言う能力とは、リテラシー以外に専門知や情緒指数、あるいは経験のようなものも含めております。たとえば物凄く哲学に詳しい知識人でも、プログラミング言語も知らないようでは、技術者の間では素人呼ばわりされるでしょう。逆もまた然りです。専門家にせよ知識人にせよ、その視野の範疇の中でのみ、専門的なことや知的なことを語っているに過ぎません。

     一方のテーマは、必ずしも能力の差異に依拠する訳ではありません。プログラミング言語を知らない哲学者でも、プログラムについて語ることはできます。政治システムの複雑性を熟知していなくとも、デモ・パレードに参加することは可能です。

     テーマには包容力があります。たとえば、テレビは観るな!と寄与のレイヤーでは拒絶している者でも、テーマというレイヤーではテレビに包摂されています。テレビを観るな!という意見を言うためには、テレビを観て検証しなくてはいけませんしね。

     今言った<寄与とテーマ>というテーマを例示するならば、Fujinoさんが適任ですね。Fujinoさんは私の寄与に応接することを放棄していながらも、<私の寄与>というテーマには包摂されているからです。「能力の差異」の意味に伴う複雑性を<能力の高低>として選択的に縮減した上で、短絡的にテーマ化しております。

     この話に唯一懸念があるとすれば、Fujinoさんから私へトラックバックが送信されていなかったことですかね。テーマの共有、できませんから。まあ、密かにやり過ごしたかったのであれば、それまでですが。

     ちなみに、「私を眺める私は?」についてテーマに言及してみると、私ならば時間を導入します。ベンジャミン・リベットの研究調査以降、自由意思や選択概念には時間が掛かることが知られています。私が私を眺めた時点で既に、そこには<眺める私>と<眺められる私>という時差が伴うのです。同一の私の中に、差異化された私がいます。これはラッセルのような論理主義者たちから長らく軽視されてきた、自己言及的パラドクスと呼ばれるものです。

     この<私>を巡る同一性と差異のパラドクスは、<同一性>と<差異>という差異に依拠します。それでも<私>は同一の自分自身だと言った場合、そこには{<同一性と差異>の差異化と<同一性と差異>の同一化}という差異が伴います。かくして無限遡行に陥ります。だからこのパラドクスは、解決するのではなく隠蔽するのです。

     隠蔽とは、盲点を盲点のままにすることと言い換えることができます。ここらへんの説明は長くなるので私のブログを読んでください。ただ、端折っても通じることは通じます。

     盲点を盲点のままにすることで隠蔽を成し遂げるためには、視点を移動させなければなりません。だから必要となるのは、新たな発見です。同一性と差異の差異がパラドクスに陥るということは、他の差異もパラドクスに陥ることがあり得ます。たとえば自分と他人の差異も然りです。だから新たに発見した差異もまたパラドクスに陥る可能性を内在させているのです。とはいえ、既にパラドクス化した差異を隠蔽すると同時に新たな差異を発見した瞬間では、新たな差異にパラドクスを見つけ出すことはできません。先程も申し上げた通り、自由意志や選択概念には時間が掛かるからです。かくして、新たな差異を発見した者は、パラドクスを盲点として等閑視したまま平気で過ごすことができるようになります。私(木村)という他者に運悪く遭遇してしまったFujinoさんは、もはや木村の寄与と自分の寄与の差異を発見したのであって、「その私を眺める私は?」という自己言及的パラドクスから解放されております。

     まとめると、我々の認識は発見と隠蔽の連続です。無限遡行を食い止めるべく処方箋が、意識閾の外側にあるサブリミナルな領域で既に施されている訳です。たとえば無限を発見している者ならば、無限を考える自分の寿命の有限性あたりを隠蔽しているのではないでしょうか?

    >「今の私はやっぱりヒトから目が離せない。」

     それに異を唱える必要はありませんが、たまにはヒトを隠蔽することで新しい何かを発見するのも、気晴らしになると思いますよ。以上です。

     

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