目は疑うためについている?

「騒音おばさん」に実刑判決・・・・その裏に隠された真実!! – kobaちゃんの徒然なるままに – Yahoo!ブログを読んで勇気のある人だなぁと嬉しくなった。騒音おばさんの話は、ブログ界隈に棲んでいると、以前から「どうも様相は違う」と話題になっていた。でも、ブログ界隈から一歩ぬけだせば、メディアの報道が「事実」であって、よもや被害者に疑いがかけられるなんてなかった。「メディアの報道に公平中立なんて絶対ない」と考えさせられた出来事。

今回被害者とされる「老夫婦」が隣に引越ししてくるわけだが、どうもこの自称被害者とされる「老夫婦」の方にこそ、トラブルの原因があるのではとの疑惑が持ち上がった。
この自称被害者とされる「老夫婦」は熱心な創価学会員であることも判明。
この事件についてはこんな書き込みがある。

via: 「騒音おばさん」に実刑判決・・・・その裏に隠された真実!! – kobaちゃんの徒然なるままに – Yahoo!ブログ

2006年の段階で、被害者の夫婦が「創価学会」だと疑われていた(参照)。

創価学会の会員であることと、今回の疑いの関連を私は判断できない。また、被害者側が「監視」したり、障害をもつおばさんのこどもに「中傷」したり、近所に「吹聴」したりしたかどうかは知らない。

ただ、火のないところに煙は立たないだろうなぁとだけ思う。あと、創価学会の会員がメディアのなかに多いという噂を耳目すると、なにかしらイヤだし、気が滅入る。

今年36歳になる。30代に突入してニュースを視なくなった。それも加速度的といういか、なかば意識的に視ない。「誰か」が「何かの目的」を持って「編集」した「映像」を「事実」だと受け止めてしまいかねない自分に恐怖を覚えた。新聞の記事を隅から隅まで読むかといえば、読まない。これも加速度的に。

「世間に疎くなる」のはやっぱりこわい。こわいから、テレビを視たり新聞を読んだりする。それは、「知る」行為だろうけど、忙しない時間の中、フト立ち止まる。「そもそも知る必要があるのか?」

知っているだけで何も考えていない自分。だけど、他人から「なんだ、そんなことも知らないの?」と見つめられる恐怖。「無知」の呪縛から自分を解き放ち「無知」を恐れないこと、それが自分には必要なんじゃないかと気付き始めた30歳。

時間はかかるかもしれないけど、「自分の目で見たこと」をじっくり考える、あるいは「自分の耳で聞いたこと」をじっくり吟味する、そういった「削る」が必要なんだ。黙読だけでなく、たまに音読してみると、自分の声が自分も耳に入ってくる。不思議な気分。

疑うというと負の意味を持つかもしれない。でも、目は危険を察知して我が身を守るためについているのじゃないかなぁと想像したり。なぜ、こんな複雑な位置についたのだろう。なぜ飛び出ているのだろう。

もっともっと削ろう。自分の感覚を研ぎ澄ますために。