diary

熱鬧

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2010/03/14 晴れ

朝、目が覚めて起きようとしたとき、両足の脹脛と左足の太腿の裏側が痛かった。激痛。03/12(金)、M先生から食事をごちそうになった後、大阪駅でダッシュしたのがまずかったらしい。しかも、プラットホームを間違えたので階段を2往復した。許容範囲を超えたらしい。03/13(土)にO先生と会っている時から悲鳴をあげていたのを無視したら、躰が怒ったみたいだ。筋肉痛というより肉離れみたいな感じで激痛(といっても肉離れを経験したことないのでわからない)。

というわけで、こういう時は仕事しかできない。午前中、S社のサイトのコード調整。午後からF先生のDB制作。イスに座ると痛いのでMacBook Pro(Late 2006)をリビングへ持って行った(と書くと洒落ているような気がするけれど、5歩程度の移動)。

『隣の病い』 中井 久夫 にある『「頑張れ」と「グッド・ラック」』という表題の寄稿を読んで、「待つ」を考える。先生によると、「待ちの政治」ならぬ「待ちの治療」というものがいちばん難しい、との由。本人と家族と治療者の呼吸を合わせることが、治療の一つのポイントであり、そのために「待つ」こともある。

「待つ」はその後に「想い」が付与される。待ち焦がれる、待ち遠しい、待ち侘びる、待ち惚け、待ちくたびれるなど。でも、自分は「待つ」が持つ「想い」を使いこなせてない。「身」も同じ。身につまされる、身を焦がす、身を砕く、身を粉にする、身を持ち崩す、身を焼く、身を沈めるなど。躰の部位へ動詞を付ける単語がある。豊かな表現は辞書に隠れている。それを使う自分は隠れた単語たちを見つけられないでいる。語彙力が乏しいのか、思考の仕方が貧しいのか。どちらも正解と自己評価。

ミーティングへ参加すると、言葉のUFO CATCHERと出会う。長方形の箱の中に言葉がたくさん詰め込められている。それらの中から適切な言葉を拾いたいのに拾えない。そんなもどかしさが顔に現れる。頭の中に映像がある(かもしれない)。その映像を誰も知るよしもない。三次元を二次元に変換して紙に出力できれば、伝達効率は低下するかもしれないけれど、意思の疎通をはかれる。変換能力と才能に乏しい自分は、やっぱり言葉で表現する。愕然。

「待つ」。時間を直線で認識する、過去・現在・未来とシークエンスに捕捉したい要求から生まれた言葉かなと想像する。捕捉した現象へ感情が込められる。時間と向きあう人たちの感情。時間はランダムでもよいはずなのに。理解できないからだ。時間は記憶とリンクする。記憶はクロノロジーからパースペクティブに移行して最後は一枚のピクチュアなる、と鷲田清一先生は書いていた。そのとき、言葉はいらないのかもしれない。

前後も遠近もない一枚の絵。その絵は、伝達効率を一切考慮しなくてよい自由自在の証。

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