diary

直観

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2010.04.20 雨のち曇り

完全独り生活最終日。残された時間を思い切り過ごそうと躰が脳をたたき起こす。06:00前に勝手に目が覚めた。お腹がとてもすいたので起きられた。お腹がすいて起きる感覚は久しぶり。やっぱりこの感覚はとてもよい。

午前中、O先生のサイト制作。昨日のF社のナビゲーションを流用。今度は、はじめからJavascriptを書いてみた。プログラムはできないけれど、書籍を参照しながらコードを書いて、プログラムが作動すると嬉しい。コンピュータにミスがないわけだから、正解のコードを書けば、動作してあたりまえなんだけど、それが当たり前と思わず、おお、動いたと思ってしまう。

午後から、F社のページ制作。画像を作り直したいし、ログをサイトへ反映させたい。それには、サイトの設計を少しずつでも変更しなければならない。焦らず焦ろう。

今日も雨。野菜の価格をなるべく暗記していると、異様な価格を目にしたときだけ目がぴくんと反応できる。全品目の価格を暗記できないし、関心の高い野菜だけに絞られる。それに、10,20円の上下に気づかない。まだまだ修行が足りないみたい。

イオンが関東方面で規格外の野菜を売り出すらしい。規格外なので安価。今まで少量に小分けして、ちょこっと野菜なんてネーミングをつけていたけど、反応はイマイチだったのかも。規格外を確保できれば、全国でもやり出すらしい。

どうして規格外をもっと販売しないのか、って憤る人がいるかもね。確か、輸送コストの問題だったと記憶している。規格をクリアした野菜と規格外の野菜を同梱すると、スペースが生まれ、大量かつ効率的に物流できないからとか(正誤は知らない)。今は、ロードサイド小規模店舗、中でも特に道の駅の野菜売場がコンビニを追い抜かす勢いに成長して、おそらく、規格外や地産地消は、そっちで格安で販売されていると想像する。だから、すわ、野菜が高騰して困った、だから規格外を売ろうと腰を上げても量を即確保できないのかなぁ。

現象学を駆使した推理小説 『バイバイ、エンジェル』 笠井 潔 の中で、本質直観の下りがある。近代精神の文法は観察と推論と実験であり、この一連の操作が真理への唯一の道だという確信。観察された事実を論理的に配列すれば唯一の道をたどって確実に真実へ到達できる。それを、砂糖を固く握りしめて扉の近くで死んでいる被害者の比喩で説明する。

しかし、近代精神の文法と真実への到達の確信は、間違いではないれけど正解でもない。真理への多様な道の一つでしかない、なぜなら、一つの推論と論理的な配列は、それと同等の権利を持つ無数のシニフィカシオンが存在し、そこには無数の解釈が存在しうる。にもかかわらず、彼、彼女は、正しく独断し、正しく論理的な推論へ飛躍できるのか(むろん、彼、彼女が選択した仮説が、他のどの仮説よりも論理的に妥当だからだ、なんだけど、その反論は完璧に予想しているみたい)。

アインシュタインは相対性理論を頭の中の映像で直観して、それらを数式化したと放言しちゃったら、専門家の緻密な反論がたくさんあると思う。

本質直観の概念や運用を完璧に理解していないし、扱い方を知らないので、言葉遊び心で触れると、大やけどしそうだ。でも、誘惑にかられる、矢吹駆シリーズに引き込まれる。何で? 現象学と本質直観は、ミーティングの最も根本的な問題を提示している、と自分が強く錯覚しているからだな。何かわからない、正解を掴み取る頭脳を持っていないけれど、その何かわからないものを何かわからないままにしながら、言葉をアウトプットしたい衝動を自慰する、無知の核へ近づける欲望を知覚できたのかもなんてね。

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