磊落

2010.04.28 晴れ

08:51京都発の特急で舞鶴へ。年に一度の挨拶。今年も一年お世話になったお礼を申し上げる。深謝。現地の情況を伺えた。18:00すぎにM氏とS氏と3人で会食。約1年ぶりにお会いした。おふたりの会話はおもしろく、酒も美味。痛飲。豪放磊落な話題から礼節、政治, 文化, スポーツ, 車などテーマは多岐。M氏は微妙なテーマに鋭く切り込んで最後は必ずご自身をオチに使って笑わせる。その会話術は妙であり、ぐいぐい引き込まれる。S氏の冷静なツッコミも絶妙。

0:05京都発の最終で帰宅。車内は満員。京都駅のホームもちょっとしたラッシュアワーかと思えるような混雑。

舞鶴への往来車中、『歯は命とつながる臓器―それは、脳のセンサーでもある』 村津 和正 を読む。賛否で判定するなら圧倒的多数で否が多いかな。自分は賛否を判定する気はなく(否、判定する基準を持ってないから埒外)、歯科医療のひとつのスタイルと受け止めて読んだ。充分楽しめた。検索すると手厳しい情報がヒット。コンサルタント業界のナカの人は100%存じ上げている(と思う)某大御所先生と並んだ写真を発見。ああ、見る人が見ると、「ああ、なるほどね」と判定されてしまうかもしれない。ビミョーって便利な表現だ。

A先生がおっしゃる見解をB先生は全力で否定してもおかしくない。見解の範疇が治療技術の場合、否定の基準は優劣に依拠されるみたいだから、否定の仕方が激しい。たとえA先生は自信満々であっても、B先生は治療技術の優位性を誇示してダメ出しする。そういったシーンはあちこちにあると思う。

他方、見解の範疇が治療技術じゃなく仮説? 概念? みたいな領域だと、それは医療じゃないよと強烈な批判を浴びせる感じの論調。科学と疑似科学の仕訳に似てるかってイメージを一般人の自分は抱く。

言った、喋った、伝言した、伝える…. などなどの行為はちゃんと単語を発声してる。だけど、それぞれの単語の意味は計り知れない。例えば、会話の途中、”認識”と発声したとき、両者が理解する”認識”の意味が完璧に一致するなんて少ない。

だから、「伝える」と「伝わる」は異なると理解できてるはずなのに、「伝える」と「伝わる」の距離は限りなく近くであってほしいって願ってしまう。その願いが希釈された「伝わる」が、「ああ、あの件、伝えておいたよ」の「伝える」で、これは、伝言したよ、に置き換えられて、おまけに、「99%伝わってる」と解釈できてる。「伝えるー伝わる」、ーの距離が短い、ほぼリンクしているニュアンス。

一つ一つの単語の意味、それらが接合された文章の意味、文脈の意味、そして物語全体の意味、意味は一次元ではなく、意味がメタになって多次元な世界だ。多次元の世界から自分は理解できる意味をナイフで切り取ってくる。ナイフは感情や経験、思考の仕方、機能ナイフなら語彙力とか。切れ味鈍いナイフを駆使して切り取った意味は、相手が望む(相手が伝えたと認識する)構図ではなく、事態は複雑系、バタフライエフェクト。

医療のナイフを持つ人は、代替医療のナイフを持ちたくないかもしれない。あるいは、一つの機能ナイフとして手に入れる人もいるかも。また、患者であれば、医療と代替医療のナイフを手に入れたけど、やっぱり不安で宗教のナイフを購入することもあると思う。先生は医療で世界を切り取り、僕は宗教で世界を切り取ったらどうしたらいいのだろう。

伝えると伝わる、待つ、それらは主観だ。自分以外の人が観察すれば、伝えても伝わったとも、待っているとも表現できないかもしれない。ナイフも同じ。多次元の世界を自分のナイフで意味を切り取り、次元を少しずつ下げていく。多次元から低次元へ下がるプロセスは主観。

主観とナイフを世界へ表現すればいい。なにより行動すればいい。でもナイフは対象を切り裂ける。たとえ、僕が持つとても悪い切れ味のナイフでも対象を切り裂き、カンタンに傷つける。