diary

穢土

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2010.06.23 雨のち曇

決まった時間に駅へ向かう人々。気分は相対的であっても駅へ向かう時間は景気指標と連動しない。早朝降っていた雨は駅へ向かう人々の姿に痛み入ったのかと思わせるように降り止んだ。悲しいことが起きた時、雨が降ると涙にたとえる。晴れはよいこととリンクする。晴れ男/晴れ女は頼りにされ、雨男/雨女は酒席のネタにされる。確率論の造詣が深ければほほえんでいればすむはずだ。ことはそうおだやかではない。思うままに動かされる。

M先生のWPを3.0へアップグレード。何度やってもアップグレードは緊張する。とりわけメジャバージョンのアップグレードは慎重に進めても完了するまで身体が強ばっている。バックアップOK、下準備OK、不具合を事前に調べたた、プロトコルも覚えた、道具も揃っている、何が心配だ? さあ、と背中を押す。インスタント食品にお湯を入れて待つの変わらない。なのに湯切りを失敗してすべての麺が流しへこぼれてしまう映像を再生する。

その後は自分のWPの制作。3.0のデフォルトテーマを使ってどこまで作り込めるか試す。コードを読みながら個々のパーツと全体のつながりをたどる。

雨男/雨女と晴れ男/晴れ女を考えていたら線を連想した。線から境界へ。連想ゲーム。境界と分別。知は対象を分けて別れさせる。分別しなければならない衝動。対象を分別すれば天秤の皿にのせられる。

内部と外部。穢土と浄土。此岸と彼岸。洋式トイレと和式トイレ。そういえば、和式トイレで用を足せない子供が増えているらしい(現場を見たことないので真偽を知らない)。燃えるとゴミと燃えないゴミ。

時代のトレンドは分別かと思ったらそうでもない。知は時に分別を許さない。本音と建前。清音と濁音。政治の世界では当たり前だった使い分けは時代の流れと逆行するかのように分別を許さない。

物質の分別はこの先も続きそうな気配だが、特定の名辞の分別は許されない。極端に狭い自分の生活範囲を観測した結果を参照したら「汚れ」に対する分別を許さなくなってきているように思う。政治の汚れを許さないから人が変われば支持率が上がるという奇妙な論理を成立させる。汚れは穢れにもおよんでいるみたいだ。宗教や文化の味わいを残すとしたら分別しておいたほうがよい(“よい”も分別だ)境界も消してしまう。

穢土と浄土、此岸と彼岸の境界はいずれなくなるかもしれない。洋式トイレと和式トイレもなくなりそうだ。新築マンションのトイレがピカピカの和式と知ったらクレームがくるかもしれない。

分別された対象はどちらか一方が消滅すれば、同時にもう一方も存在しなくなる。骨董品が収集家を魅了するのは二つあると想像する。存在が持つ質感と偽物の存在である。あまたの偽物がある中から本物を選ぶ。偽物を愛でる寛容の精神。

線を引いて境界を設定する分別はユニークな事象や個体を生み出す。分別の過程でもっとも刺激的な現象だ。分別に夢中になっていたら偶然にも説明できない偏差を呼び込んでしまったエピソードを物語にする。此岸と彼岸の間にあるもの、穢土と浄土の境に立つ番人、男性用小便器。境界と異界。特異点。

少し心配なことがある。汚れ。汚れを清める。清めると書けば何だか高貴で崇高なイメージを持ってしまうけれど、単語を消毒に入れ替えてみたら連想ゲームの進む方向が変わる。

汚れを消毒する。汚れは穢れ含んで忌み嫌われ消毒されてしまう。清潔は好まれる。清潔を語る人はたくさんいるけれど穢れを語る語り部は徐々に減っていく。マイナな語り部たちが与えてくれたユニークを生み出す過程が失われないかと心配してしまう。

知は分別をゴールに設定してしまってユニークな事象や個体を生み出さなくなったら、数十年後、男性は立って小用をしなくなってしまわないか。あるいは立って小用する男性がいなくなるより小用便器が取り壊されるほうが先か。

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