diary

解釈

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2010.08.15 晴れ

終戦の日。複数ある。1945年8月14日, 1945年8月15日, 1945年9月2日, 1952年4月28日。ずっと拝読しているfinalventさんは過去の記事で終戦記念日は1945年9月7日と意見していらっしゃった。一つの事態に対して複数の説がある時、衝撃が記憶に影響を与えた日付が記念とされるやすいみたい。事実がいかなるものであれ。

茂木先生や高橋源一郎先生が戦争について連続ツイートしていらっしゃった。藤井先生はブログに書いておられた。それらを拝読して戦争という多次元の現象をどうのように切り取るかを学ぶ。

06:15頃に目が覚める。めずらしく体の調子がよい。体重を2kg落として54kgにしたいが反対されるので現状を維持するよう意識する。

M先生のページ制作の続き。夕方頃に仕上がったので夜はじっくりと眺めていた。WPのコードを変更しなければならないので下準備。

08/08頃からブラウザのニュースサイトのブックマークを削除した。RSSも削除。中毒症状をリハビリしたくなったので。ウェブサイトの制作やミーティングへ出席する仕事をしていると、何かの事柄を知っていなければならないのじゃないかぁと自分に強く迫っていた。たとえばコンピューターの知識を所有している印象を相手から抱かれると、コンピューター”全般”について詳しいと誤解を招きやすくなる。

それらの誤解の9割は自分が招いたのであり、存在を認めてほしいから情報を知っていることを披露したい、という強い気持ちが”全般”を知っているかのように見せていた、と自己評価している。

その振る舞いの傾斜がきつくなると、IT関連のニュースにとどまらず一般のニュースサイトや雑学系にも手を伸ばし、情報量の期待値が増加していく。3,4年前に情報収集=時間消費の式が生活で確立されていた状態を認識した。

その時から中毒症状を自覚していたつもりだった。情報収集の手段を減らしたが本格的にリハビリしようと思い立たなかったので自覚していなかったかもしれない。

08/08から1週間。今の経過観察を備忘しておくと、どうして「知りたい」のだろうと? と思い巡らせている。思いが堂々巡りいている状態で、考える手前と認識している。どうして知りたいのかと自問して、解釈したいのだろうなぁと自答する。といっても先ほどの先生方のような高次元の解釈じゃなく、次元を下げると、「感想を述べたい自分」がいると書いた方が適切に近づく。

一つのニュースにアクセスする。どのようなサイトへどの情報を取得してもよい。アクセスして入手した情報に対しての感想を述べられる自分に酔っている状態が続く。まるで報道ステーションを視て野次を飛ばしている人みたいだ(と想像で書いてみる)。

それが常態化しているので「感想を述べる」行為が解釈であると錯覚する。錯覚は解釈を仕入れようと我が身を検索へ奔走させ収集へ向かわせる。血眼。気に入った意見と出会い、高度な解釈と認定できたらそこに記載されている単語の配列を少し入れ替える。その入れ替えや組換えが自分なりのアレンジだし、そうすることで高度な解釈を自分もできるようになったと解釈する。なにがなんだかよくわからなくなってきたと解釈しながら書いているけど。

リハビリを始めて1週間。解釈は具体化された事象に接近できる道具だ。他方、思考(といってもどういったシロモノかまったく検討つかないので難儀)は構造を観察して抽象化していく作業であり普遍的な事柄を記述する行為かも、と身体を動かしながら思いつく。

問題を与えられたら解釈は有効に使える。思考は問題を自ら作り出さなければならない。両者の性質の違いはそのあたりにころがっていそうな気がして、今なんとなくそれを探し回っているところって自分をマッピング中。

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