diary

私憤

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2010.08.20 晴れ

火曜日あたりから明け方に目が覚めるようになった。すでに蒸し暑いから寝苦しいので起きる。眠りが浅いときに目が覚めるためか寝覚めは悪くない。起きてすぐに机に向かえるのでよい傾向だと思う。

11:00前に出発。大阪駅で途中下車して紀伊國屋書店へ。本店へ向かって左側の扉が閉まっていたのでまさかの休店日!!のショックを早とちりしながら近寄ってみると改装中で右側の入口から入店してくださいとの貼り紙。改装中の店内は狭くなっていた。ちょうど半分程度の面積に縮小されている。

『ゾラ・一撃・さようなら』 森 博嗣 を購入。販売面積の縮小と比例して陳列している本が減った。配置が変わったので慣れない。すぐに店を出た。平積みの 『jQueryクックブック』 jQuery Community Experts が印象的。Amazonは2-4週間待ちの表示なのに紀伊國屋書店では5冊ほど平積みされていた。あの手の重い本を持ち歩くよりネットから購入したほうが便利だし象徴的な感じがした。

13:00からF先生のミーティングへ出席。場の距離感を測り間違えたために自分の中でよからぬ感情が起動したのを自覚。『怒らないこと―役立つ初期仏教法話〈1〉』 アルボムッレ スマナサーラ を思い出しながらその感情が私憤か義憤かを吟味。後者を選択。私情をさしはさまず公共の視座から観察する能力を備えていないので義憤を選択する余地は残っていない。場に近づきすぎて距離を間違えた結果、意図の伝達を失敗した自分のミスだ。その責任を負わなければならない。責任を転嫁するためによからぬ感情が存在する。15:00終了。

19:00からM先生のミーティングへ出席。スイカをガーゼにくるんで食べた。歯があるという恵みを実感した瞬間。食べるという行為が欲の根底にあることを認識した。無意識の中に隠れた気づかない事実。他者が契機とならなければ気づかない事象がある。目線を変える。視線を歪ませる。20:50終了。

芸能人が刑事罰に問われるような不祥事を起こしたとき、日頃の評価と不祥事の落差が大きいほど関心の度合いが高くなる。芸能というごく一部の面を評価しているはずなのにその人すべてを評価してしまっている。一部の評価が全体の評価へ”いつ”転じるか、そのきっかけを知らないし、転じるプロセスを可視化できない。本人もその評価を受け止めて、主観的に自己評価しはじめる。

芸能人やスポーツ選手、高度な専門性を身につけたプロフェッショナルだけがはまる陥穽ではなく、絵図を縮小すれば凡才の自分にも適用できる。

同じ仕事を続けられていると、周囲はその能力とごく一部分の自分を評価しているという事実を忘れてしまう。謙虚さを失い傲慢になる。私という人間すべてを評価してくれていると錯覚する。

仲間からの適切な圧力がない環境にいるとそのような錯覚を抱きやすくなると自分は観察している。環境と個人、両方に課題がある。あるいはフリーランスの自分はピア・プレッシャーを受けないので周囲からは醜く映った自分の姿にまったく気づかない、と自分を評価している。

「きみが失敗しても、だれも何も言わなくなったら、きみのことはあきらめたという意味なんだよ」(『最後の授業 ぼくの命があるうちに』 ランディ パウシュ, ジェフリー ザスロー) の「失敗」へいくつもの単語を挿入できる。その単語を挿入したいくつもの文章を自分は仕舞い込んだのかもしれない。

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