台詞

2010.11.15 曇

日記の冒頭を書けない。自分が見たモノを記憶から取り出そうしても思い出せない。思い出は記憶できるけど思い出せない、とは違って、記憶へ残せるように見ていないかもしれない。今日でいえば一番記憶に残っているのは、夕方の空だ。宮崎駿先生のアニメで描かれていそうな雲。色は灰色と紫色がまじったような暗いイメージの雲なのに空は青く、そのコントラストがミスマッチで鮮明に記憶に残った。

終日、アルバイト。日曜日もずっとアルバイトをして今日で仕上げられた。とても順調だった。効率よく入力できると嬉しい。

設備投資の借入金は選択肢を増やす資金調達だし、人間の体でいえば体質改善につながるかもしれないのでよいと思う(プロテインはアリでもドーピングはイヤだな)。他方、資金繰りの借入金は危険だよ。痛感。サプリメントを飲んで一時的に栄養を補給できたとしても体質は改善されにくい(あっ、いやサプリメントを否定しませんよ、エバレッシュB26は効果覿面)。さらに次に打つ手を狭めてしまう。選択肢を減らす資金調達だと僕は思う。

というわけで気分をよくしたので夕方にディスカウントストアへ。徒歩10分のところを回り道して20分。このストアはちょっぴりマイナなシングルモルトと外国製の調味料やオリーブオイル、菓子類の品揃えが豊富。クレイジーソルトやオリーブオイルが安いので重宝している。その帰りに雲に出会った。空を見上げてよかった。

『プレイバック』 レイモンド・チャンドラー に “If I wasn’t hard, I wouldn’t be alive. If I couldn’t ever be gentle, I wouldn’t deserve to be alive.” という台詞がある。いくつかの訳があるけれど、以前、ラジオ版学問ノススメ(ゲスト高樹のぶ子先生)では「強くなければ生きていけない、優しくなければ生きる資格がない」と訳していた。

こんな台詞を日常生活で喋る機会があったら、よほど浮世離れした生活かあるいは言文一致運動に反対している人の会話だろうなあ。

とはいえ、大学の時に読んで小説の内容を理解できずに読み捨てて、その後、何かの拍子でこの台詞と出会い、そして何度も見かけるようになってだんだん滋味深い言葉として受け止められるようになりました。

最初は、「勝負への勝ち負け」的な強さを思い浮かべ、それから「他者(=人だけでなく)に対して肉体的・精神的な耐性」の強さを想い描いた。今はまったく違う。自分に対してだけの強さだ。それもコンクリートのような強度ではなく、しなやかで粘りのある行動と素敵な孤独を感じる感性から構成される強さをイメージしている。言い換えれば自分はとても弱い存在であることを完璧に認知できている状態ですね。またこのイメージも変わっていくでしょう。

優しくなければ……も同じく優しさへの解釈は変わってきています。自分にも厳しく他人にも厳しい状態は存在しないし、他人に厳しいのは自分を厳しくしなければならないことから逃げている代償だ、と自分を観察した結果から判断するようになった。自分の見栄や虚勢を注意深く観察していればわかってくる。それでも見栄や虚勢からまだまだ脱出できません。

「ああ、これを言ったらどう思われるかな」と考えている間、要は他人の評価を気にしているかぎり優しくなれない、じゃぁ、他人の評価を気にしなくなれば独善的になる恐れもあり、他人の評価を気にしないで独善に陥らない視座を追い求めていく先に優しさが見えてくると思います。

「あなたのために言っているのだから」という台詞を忌み嫌うようになったのは、それは「あなた」のために言っていないなあと自分の言動をふり返って導き出した結論です。だから、自分の思考に極限まで素直になって相手に率直に意見を伝達する。伝わるなんて期待しない。それが優しさの入口のような気がします。

もう一つ。『長いお別れ』 レイモンド・チャンドラーから。原文は “To say Good bye is to die a little.”で、訳は「さよならをいうのはわずかのあいだ死ぬことだ」そうです。さよならという言葉がTwitterのつぶやきみたいに生活のタイムラインへ消える。そして時間がたって躰が「空白」を認識したら、空白を埋める作業をはじめる。その時、言葉から取りのぞかれた「さよなら」を知覚したのでは、ね。うん。