diary

粘性

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2010.12.01 晴れ

ラベンダーはつぼみをまだ持っている。嬉しくなった。華を去り実に就く。華やかさだけを眺めていては何も見えない。何が書かれているかより何が書かれていないか、あるべきものがない、物理的に目に見えない事柄を見えるように想像する。でもね、こういうなのってあんまり”フレ”すぎると非科学的というか”アッチ”な方面へイッタと誤解されないから気をつけないとね。といっても誤解をコントロールできませんが。

O先生のイラスト制作。午後からサーバのメンテ。15:00から16:00まで近くを散歩。途中、小学校の近くを歩く。あちこちでボランティアの人たちが立っている。60代以上の方が多い。他の年代の方もいらっしゃる。子供たちが目の前を通ると「お帰り」と声をかける。「ただいま!」と大声で返事する子供やうつむき加減で小さくつぶやく子供。はずかしそうに頭をちょんと下げる子供。いろいろ。立ち止まってお話する子供もいる。おじいさんは嬉しそうだった。おばさんは自分の子供のようにオッカサン風にしゃべりかけていた。観察したい衝動をおさえる。ジロジロ眺めて不審者と思われてはかなん。目的を持った歩き方へ変えてボランティアの方々の横を通り過ぎる。

20:25にO先生と電話でやりとり。こちらにはこちらの言い分やデザインの意図があるけれど先生のおっしゃることをきちんと受け止める。全部を鵜呑みしない。先生のおっしゃる内容を受け入れる部分と設計のコアを維持するための説得。バランス。クールに論理的に反論できなければ僕の設計が間違っている。どれだけクールで論理的に伝達できるか。躰は情熱に包まれている。

21:00すぎに電話を切って21:20頃にM先生へ連絡。ずっと気になっていた。11/30の連絡メールが先生らしかぬ簡素で平板で(あくまで僕の主観だ、先生はただ連絡メールを送っただけかもしれない)心配だった。普段ならミーティングの前か後でお話を伺う。今回はそうじゃあダメかもって感じた。

いまの自分の心理的な状態を観察すると物事のあり方や伝達のニュアンスを過度にとらえすぎてしまっている。その傾向が強い。神経質な、という方向じゃない。まったくコントロールできない事象にまで想像を膨らませてしまっている。ひょっとしたらこの心配も自分の思い込みにすぎず、こんな時間に電話をしてプライベートの邪魔をするかもしれないってためらった。先方を慮っていればこういうためらいは生まれない。自分を防御しよう、自分を評価してもらいたいという方へ思考は向かってしまっている。呪縛を解かなければならないけど解き方がわからない。

先生と50分ほど電話でお話を伺った。想定していたとはいえ、その電話で気の利いた言葉を一つも申し上げられなかった。ただ自己満足に陥らない程度に電話してよかったと思う。

「現実と虚構の区別がつかない人は、良い読み手か、悪い書き手になる」とある作家の先生は書いていた。端的に表現した文章だな。僕は区別がつかないほうだと自分を分析している。自分の文章はひどく下手で悪い書き手だ。悪文、という意味の悪い書き手じゃない。悪文でもステキな文章をつづる人はいらっしゃるし、悪文が感情を刺激したり行動のトリガーであってもおかしくない。僕が思い浮かぶ悪い書き手の定義は二つ。「何を書いているのかわからない」と「視点と着眼と発想がつまらない」だ。

どうして書くのか尋ねられたら好きだからと回答しない。好きで書いているのではない。書き続けなければならない理由。悪い書き手であるのはしょうがない。だったらせめて良い読み手になりたいなと思う。だから書き続けます。

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