二兎

2010.12.06 晴れ

朝の温度は4℃ちょっと。寒い。「今日の京阪神は季節外れの陽気です」とラジオの人がしゃべっていたから正午ごろに季節外れの格好で外へ出かけたら季節外れの寒さを感じました。なんでよ。ああ、そうか、そうですね、滋賀は京阪神ではないのです。早合点した私、反省。

O先生のサイト制作。僕ができる制作は昨日でひとまず終了。ブラウザの表示も確認した。IE7.8で表示を確認。IE6はこれから。ただ不具合があっても致命的でなければ修正しない。

こういう時、大手のサイトは羨ましい。IE6はもうサポートしません、って一言書けばOK。なんでIE6をまだ使っているんだろうって調べたらイントラネットの関係でIE6に限定している企業ってあるんだな。そんな制約はキツイ。どうするんだろ。

「二兎を追う者は一兎をも得ず」と云う。ひねくれ者がこういう単語にかみつく。だからかみついた。三兎以上得るし、一兎を得るのが普通。得られないのは自分の判断をコントロールできていないからだよ。

私の父親の職場では女性の比率が高かったらしい。そこで現場を陣頭指揮していた。タイヘンだったらしい。定年後、話を聞くようになった。詳細な中身は割愛するとして、父親の嫉妬論については賛同できない。ごめんね、お父さん。それ以外の要素は納得。頷きます。まあ性差の要素があるのかもしれない、いや知らない。もっと科学的に分析してくれよ、って父親に懇願するが、そのたびに世間知らずと失笑される。うぁ、的を射たコメント、頭を垂れる。

どうすれば相反する二人の女性のスタッフを機能させるか。何を意思決定しなければならないか? 己の判断をコントロールしているだろうか?

“女性”という要素を取りのぞけば構造は同じ。相反する二人の人間を機能させなければならない。こういうとき、二人から現場を去られたら、あるいはどちらか一人が去っても「二兎を追う者は一兎をも得ず」という。一兎とも得ないわけない。ふつうは二兎を得、さらに三兎、四兎と得る。

古典的なテンプレートは二人に対してよい顔をする。よい顔って? 世間で使われているニュアンスにしておきます。便利な言葉です。二人の言うことを聞く。頷く。互いに対してそうだよって返事する。結果、「私とあの人とどちらを選ぶ」って昭和の台詞が空中に飛び交い深淵が横たわる。

仕事ではと限定する。二人から何でも言うことを聞くという行為は最適だろうか? 「信任」「権限委譲」って言えば聞こえのよい経営タームだけで見方を変えれば「何もコントロールしない」になりかねない。

この手の話のなかでは性格が持ち出される。「リーダ(or 経営者)は優しいから」という。でも、それは優しさ? 僕が想像する優しさとは異なる。が、自分の優しさ論を他者へ強要しない。ただ、ああ異なるなあって感じる程度です。

って、そんな話を大切な人としたけど意図をちゃんと伝えられなかった。自分が怒りにまかせてしゃべっていたから。嫉妬から生まれる怒りは独りよがりな見解を導き出す。こわいなあ、失敗した。

二人が訴える動機はなんだ? 動機なんて把握できるわけない。それでもリーダは動機を探索しているだろうか? 二人は「私がしたい」ことを訴えているだけでは。「(あなたがしたいことではなく)あなたがしなければならないこと」を諭す。これもリーダの責務。二人がしようとすることを拒絶する機会があってよい。リーダは全体を考察して運用しなければならない。この全体は「全体のことを考えなさい」という一般論的なニュアンスじゃない。

『世界は分けてもわからない』 で福岡伸一先生は書いた。「この世界のあらゆる要素は、互いに連関し、すべて一対多の関係でつながりあっている。つまり世界に部分はない。部分と呼び、部分として切り出せるものもない」と。

全体は部分の総和である。そうじゃない。全体は部分の総和以上の「何か」だ。リーダは一対多の関係のなかにいる。時に部分であるけれど時に全体にもなる「個人」と、部分の総和以上の「何か」になる全体の「組織体」。リーダは二つの全体と向き合っている。個人と組織体の二つのようで一つに統合されてもいる。

様態は複雑な反面、コインの表と裏という単一でもある。様態は複雑と単一が同居する混沌に満ちている。コインの表には「やってみなければわからない」と書いてある。複雑だ。そのコインをめくって裏を見たら、「想定していない」と書いてある。表に「任せる」と記されたコインの裏には「判断をコントロールしていない」とあった。コインの裏を見るというプロセスを忘れたくない、って僕は己へ言い聞かせる。まだ足りない。ぜんぜん足りない。だから他者を傷つける。

とても複雑です。複雑の中から単純が生まれさらに複雑な様態へ。