醜悪

2010.12.07 曇

新しい建売や注文建築の前を通るとヘンナ感じがしたか。ちょっと前から。何がヘンナなのか言葉にできなかった。記憶に残った住宅の映像を再生できるんだけど何がヘンなんだろ。今日、自宅の近所を散歩していて新しい家を眺めていて気づいた。あっ! だった。そうか、植木が見えない。外観はもちろん玄関の様相が昭和の家と異なる。あと外からベランダが見えない。家によってはベランダが見あたらない(洗濯物はどうするんだろ?)。外観のイメージは凹凸の少ない側面。直方体的な。植木を置く凹凸の空間がない感じ。

昭和の家は、玄関と公共道路の境目に植木をずらっと並べたりベランダに植木を置いている。置いていない家もあるんだけど、まあ、前を通れば植木を見つけられるけど新しい家はスッキリしている。人が環境に植木を置くのじゃなく、スッキリした環境が人に植木を置かせないのかな?

プログラムのテスト。jQueryのツールチップを使ったナビゲーションをO先生のサイトで取り入れた。それを他のサイトでも使ってみたくなった。特にF社のサイトでうまく使えばナビゲーション先のページ案内に使えそうだ。

デザイン(設計)とルックス(見た目)は異なる。前者は基準を確立しなければならないし完成した後の変更はデータをもとに検証する。後者は好み。いくら客観的に観察しても、やっぱり主観的な判断に引っ張られる。僕の場合、前者はなるべく妥協しないように意見を伝達する。ただしロジカルに述べられない基準なら僕の設計が間違っている。

後者についてはなるべく折り合えるよう話し合う。でもね、なんというか、とても難しいです。先方の意向をかなえたら僕の主観的にはちょっと違うよなあって思うこともしばしば。結局、前者と後者は異なるといっても独立した二つの集合じゃないんだろうな。

RSSやちょっと開いたサイトの先々で市川海老蔵さんの記事が目に入る。ほとんどが「罵倒」に近い言葉を使っている。タイトルだけで充分だから読んでない。事件の詳細も知らない。歌舞伎役者としての市川海老蔵さんの「力」を知らない。いわんやプライベートなんて。昨日は記者会見をやっていたらしい。ラジオで300文字ぐらいのニュースを聞いた程度。

不打落水狗だか打落水狗だったか魯迅が言ったということわざの正しい用法を僕は知らない。ネットで見かけるタイトルは水に落ちた犬を徹底的に打っているみたいだ。

「傾く」という言葉の語源をここで書かなくても茂木健一郎先生が Twitter や ブログで書いていらっしゃるし、『一夢庵風流記』 隆 慶一郎 を読めばわかる。ぐぐってもよい。

自分たちの倫理観や価値観へ引きずり込まないと気がすまない。自分たちの倫理は正しく、価値観は尊い。

その倫理観と価値観は紺色のスーツを着て一斉に就職活動する環境をつくりだした。写真を見ると、どこかの国の一党独裁か独裁者(これも僕の倫理観は正しく価値観は尊いだ)の演説でも聴きに来た人たちかと思い、本当に日本かどうか奇妙な感覚が残る。橘玲さんのサイトにある日経新聞2010年9月16日付夕刊に掲載された、「経済今昔物語」という記事の写真を見たら百聞は一見にしかずだ。2010年JALの入社式の写真にはスーツはもちろん靴や髪型までそろった人たちがずらりと並んでいる。もう一つは1986年の写真。橘玲さんがおっしゃっているとおり「「人類は時代とともにより自由になっていく」という楽観的な進歩史観からすれば、この2枚の写真は衝撃的だ」し、この2枚の写真だけに限定すると進歩史観はあてはまらない。

観客は歌舞伎役者の傾く姿をみる。魅了される。それだけでよいと僕は思う。それ以外はどうでもよい。社会はそんな寛容の精神を持っていると僕は信じている。他人に迷惑をかけてまで傾いてもよいのかとお叱りを受けるだろう。それでも一人や二人ぐらいそんな役者がいて、もしその役者が人を魅了し続けるなら、好きにすればいいじゃないかと。

今、社会の成員のひとりとして僕が引き受ける責務は、どうして同じスーツを着て同じ髪型で同じ靴をはいて入社式で誰かの話を聞くような環境を作り出したかを考えて反抗することだ。

自分たちの倫理は正しく、価値観は尊い、という空間から距離をとる。本当に心底怖い。

市川海老蔵さんのことはどうでもよくてどうでもよいから素直に書ける。市川海老蔵さん、僕は何があったかなんて興味を持っていないし詳細な説明を求めません。一般的にいう「悪」や「無法」があったとしたらこれが肥やしになってさらにもっとステキな役者さんになられることを祈ります。生涯、傾いてください。