diary

雲古

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2010.12.09 晴れ

大雪を迎えて積雪が報じられる。本格的な冬の到来。閉塞成冬(そらさむくふゆなる)、しみじみして味わいのある言い回し。朝から寒く雲がたれる。雲が日差しを遮る。部屋は暗くなり、雲が途切れたらまた明るくなる。お昼になっても体感温度は低いまま。寒い。この寒さが続けばうまい白菜を食べられるかもなんて。柔らかい白菜を鍋にさっと入れる。薄く長方形に切った大根があればなお幸せ。

F社のサイトを練る。専門的サービスを訴求するサイトは区別に悩む。商品と概念の区別。自社商品のサービス内容を説明しなければならない。サービス内容を説明するには専門的知識をわかりやすく解説する手順を省けない。法律であれば、法律そのものの解説(=概念)とその法律が属する法体系を駆使して提供するサービス(=商品)を区別する。区別したいのに文章はいつのまにか混在する。自社商品のサービスを説明しているのか、専門的知識の一般的な解釈を解説しているのか。プロセスのフィーの発生するフローを説明できても、フィーの下限と上限は明確にしづらい。要は、古典的なテンプレートを引用すれば「目に見えない」商品だから「目に見える」ようにしないと。

僕はうんこやおならの話がどこからともなく聞こえたり見ると、キャッキャキャッキャの奇声をあげてテンションが一つ以上あがってものすごく喜んで話するらしい(あの人からそう言われたような気がするけど嘘の記憶かな)。 たしかに納得。いまでもそうだ。ポッドキャストやラジオからうんこやおならの話が聞こえてくると、今時そんな言い方しない”抱腹絶倒”してしまう。ケタケタ笑う。ニコニコする。転げ回る。この間もポッドキャストで「おならをしようとしたつもりなのにちょっとだけうんこが出た」って聞いて60分ぐらい立ち直れなかった。それを”へじる”って名付けようだった。で、その人はファミリーレストランで客待ちのリストに”へじる”って書いた。で、店員さんは…….。ああ、書いているだけでもうダメだ…..。

『おならうた』 谷川 俊太郎 なんて最高だ。詩をよく読んだ時期があった。詩のなかに「いもくって、ぶ。わらって、ぴ。こっそり、す。あわてて、ぷ。」なんて書いてあるんだよ!

おはならはまたの機会にするとして、「うんこやおしっこをする」はもっとも身近な動詞だ。動詞が名詞に変われば排泄でありもっとも遠ざけられる。肉体的に近い動詞と精神的に遠い名詞。生まれて数年は自分でうんこやおしっこをしても始末をつけられない。シグナルを送信して他者が受信する。それで贈与の行為が成立する。

はじめてひとりでうんこができたのはいつだろう。自分の記憶をたどる。和式のトイレにしゃがむ。落ちないように。母親が見守っていたか覚えていない。落ちたらあかんよって注意は覚えている。ちょっと力みながら「ウン」って答えた。下をのぞけば自分のうんこだけでなく両親のうんこが見える。他者のうんこを見ながら育った。

僕は子供をさずかっていない。だからいつごろおむつがいらなくなるのか知らない。まぁお世話にならなくなるまで3年か4年、それに自分で食器を使ってお口へごはんを運べるようになるまでそれぐらいかかるかもしれない。自立に必要な最も基本的な動作を習得するのに子供は3年はかかる。他者の贈与を受けながら。だとしたら他者の死に対して3年ぐらい喪に服してもよいかもしれない。

うんこやおしっこは他者のお世話になることから生がはじまり、自立してからやがてまた他者のお世話になって死を迎える。

今日も雲古と御叱呼と放屁しよう。ウン、生きている。

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