diary

離別

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2010.12.31 雪

大晦日の朝、清閑。自然が人工の音のボリュームを最小にしたみたいだ。日常なのに非日常。日常は人工の音から多大な影響を受けている。外が暗くてもカーテンを開ける。そう教えてもらった。暗くてもカーテンを開けなさい。

谷が続いた年。心の不安を受け入れられても心の混沌はお断りしたい。カオスは時々にして。誰彼ともなく何度もご寛恕を請うわけにはいかないので。なんとかしたい。夏頃からリズムを探す。5:30から6:00に起きて23:00には就寝する。このリズムを選んだ。覚醒している間の行動へ時間の制約を課さず。気ままにまかせた。気にしなかった。とにかく始まりと終わりを意識して運用する。持続できる範囲で。半年間続けて発見があった。谷はすぐに埋まらない。しかし改善された。「リズム」が安息の宮殿みたいな役割を担ってくれる。カオスを察知したらそれを抱えたまま宮殿へ駆け込む。宮殿から出るとき少しだけ穏やかに。

M先生のWPをバージョンアップ。自分のWPでテストした。小規模なアップデート。とはいえ「警告」相当のバージョンアップなので早急に適用したほうがよいとの由。WPのフォーラムで不具合報告の有無をチェック。バックアップ完了。準備万端。いよいよ。1分ほどのアップデート。いつもこの時間が長い。”もし”がよぎる。データは手元にある。大丈夫。実行。無事完了。

7:00すぎから雪が降ってきた。降り始めは雨か霙みたいだった。あっというまに雪。みるみる積もる。Flickr に写真をアップした。その様子がおもしろくてしばらく眺めていた。雪が積もるプロセス。

あとは読書。晦日の続き。届いた書籍に目を通していく。知識をむさぼる読書と血肉としたい読書は違う(と僕は思っている)。前者から後者へゆるやかに移っている。知識をむさぼる読み方をしても僕は読んでいるしりから忘れている。本棚を眺める。読了の本に対して自分の論考を述べられない。論考どころから要約すらできない。あっけにとられる。演繹的思考ができない。帰納的で主観的な推論に頼っている。指向性と実践を基準にした血肉としたい読書へ移行しつつある。手元に置き何度も読む。試す。失敗。また読む。

「名詞ではなく動詞をデザインする」。IDEOのビル・モグリッジ氏の言葉。『発想する会社! ― 世界最高のデザイン・ファームIDEOに学ぶイノベーションの技法』 トム・ケリー, Tom Kelley, ジョナサン・リットマン, Jonathan Littman をはじめて読んだとき衝撃を受けた。

IDEOのデザイン手法、「動詞をデザインする」ために必要不可欠な要素は「観察」。現場に身をおき自分自身で見つけだす。その過程にはばかげた質問はない。ブレインストーミングはいかなる質問も歓迎。観察から着想をつかまえる。

なのに僕はどうして動詞で考えられない? 観察が足りない? いつも思う。日本語って名詞と形容詞が多い言語なのかな。皮膚感覚。形容詞+名詞が日本語の根幹かもって考えたり。そうじゃないよな。『考えなしの行動?』 ジェーン・フルトン・スーリ, IDEO の写真を何十回と観る。これって、名詞や形容詞ってレイヤーじゃない。まさに「人間のやること」って感じだ。

でも名詞と形容詞に囚われる。それに助詞だ。もっともやっかいな助詞。物事を考えている間は気にならないのに文章を書こうとすれば意識に必ず現れる助詞。

「は」と「が」なんて気にしたくないのに文法書を読まずにいられない。「に」と「へ」。「を」や「の」。「で」って何で? 「と」とか。

口語で助詞が抜けていても気にならない。言わんとすることを理解できる(意味不明をことをしゃべる人はいる、高度な戦略だろう)。最近では、助詞を省略した文体を見かけるし違和感は薄れてきた。ならひょっとして助詞は無駄なヤツって思ったりして。100年後の日本語は腐助詞な言語へ進化している、妄想は自由。

でも、気になる。いまいましい、愛いやつ(いつから目下になった?)。

無駄なヤツかもしれないのに重要な「何か」を秘めていそうなコワイ存在。誰かの文章を読んでユニークな文体と僕が思う時、助詞の使い方が優れている。その傾向が高い。優れている、も、傾向が高い、もデータはない。僕がそう感じるだけ。論拠はまったくない。

だから(なんの”だ+から”だ?)、無駄をかんたんに捨てちゃいけないなって思うわけで、「に」と「へ」、どちらでもよいんよね、たぶん、なんなら省いちゃいなよ、でも、無駄を捨てて通じたとしても、なにか、物足りなさを感じる、美しさが欠けるとか、そんな「価値判断」にひっぱられるのです→未来人の方、100年後のあなたがたの価値判断はいかようでありましょう。

助詞からの離別は簡単だ。そもそもユニークな文体がユニークなコンテンツは同定じゃない。創り出すとは限らない。淡々とした普通の文体で独創的な内容を記述する人はいる。

僕の基準は右。物理的な空間や数値的な時間より精神的な接続の方へ価値を置いている。カラダ的。物理的な離別は難しくても精神的な離別はこみ入らない。ひるがえって捨てるは難しい。物理的に易々と捨てられる。精神的に捨てる、は難儀。捨てるとは意識から存在を消去する。消去されたビットは表面上から消えているように見えるけど専用ツールを使えば復活できる。記憶が存在を再生するように。

専用ツールを捨てちゃえば?

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