双眸

2011.01.06 晴れ

小寒。寒の入り。大寒よりも寒気を意識すると云われるとおり寒い日になった。明日(正確には今書いている一月七日)は一段と寒くなるらしい(雪が積もっている)。第六十七候、芹乃栄。芹、春の七草のひとつ。古代から馴染みある多年草。二十五分ぐらい歩けば魚屋さんんがある。美味そうな笠子があれば煮付けにしてみたい。薄味で。

知人が MacBook Air を買うというので組み合わせや最適な環境を調査。ネットはすべて iPhone ですませているので、自宅では MacBook Air をネットに接続しなくてもよいらしい。そう書かれたメールを読んだ刹那、難儀だと思った。なぜなら常時接続のネット環境がない自宅で PC を使うライフスタイルを想像できなかったから。でもすぐさま修正した。先進的かも。

MacBook Air は美しい。ハードウエア的先端を疾走している。一方でプラットフォームは旧世代の感覚を引きずっている。「ローカル環境」を持ち運んでいるにすぎない。MacBook Air はネットへの接続がスマートフォンで事足りるライフスタイルをキャッチアップしていない。これからは「ネット環境」を持ち運ぶようなデザインが求められると思う。

その先駆けとして Apple は MacBook Air から CD を廃止した。たぶん、MacBook Pro や Mac mini も廃止されると思う。ひょっとしたら iMac も。じゃぁ、ソフトのインストールは? 1月7日からMac App Storeをオープンする。ネットからダウンロードしてインストール。ローカルからクラウドへ。

先日、高橋源一郎先生がTwitterで小説ラジオ「愚行」をつぶやいていらっしゃていた。その中の一つ。

「愚行」16・ぶっちゃけていうと、ひとりの人間の中に、矛盾した考えが渦巻いている。人間は点ではない。面かもしれない、立体かもしれない。点なら、そ こから一つの信号だけを取りだせばいい。しかし、面や立体からは複数の信号が発信される。それを受信するためにはどうすればいいのだろう。

そう思う。アンビバレントな感情も渦巻いている。たとえば個人と集団。私の個人を確立して他者の個人へ敬意を払う。一方で何処かの集団に属している。集団は制約を課す。私の個人と反する制約がある。集団のなかでは自由であっても自在ではない。表に「個人」と刻まれたコインの裏は「集団」の刻印(最近のマイブームな言い回し)。あるいは「社会」かな。そして義務がコイントス。傍観者は「共存」。違うかな、共存がコイントスして、傍観者は義務?

矛盾は進化と深化の種だと僕は思う。種を簡単に捨ててはいけない。矛盾、だからおかしい。矛か盾を選べ。もし、そんな時流が蠢動しているとしたら僕は時流から離れたい。

矛盾は現象をゆらがせる。現象を固着させるために矛盾があるのじゃない。矛盾を超える。ヒトは矛盾を超越する視座を獲得するために言語と思考と感情を全力で使いこなせると信じている。

矛盾を超越しよう。それには人称の捨象が求められる。人称が存在しない世界。純粋経験。主客未分。私とあなた、関係性は成り立っている。でも主と客へ分けてはいけない。私とあなた、関係性を維持しながら人称から脱出する。

今、エコロジカルがトレンドだ。トレンドで終わるのかサステイナブルな行動様式へ定着するか、知らない。ミツバチと植物がお互いに進化してきたように生物が環境に影響を与え、環境は生物に影響を与える。

エコロジカルから「エコ」を取り出し、環境の矛盾を指摘する。環境危機という。他方、世界は都市化へ。人間は都市化を選択している。国連のデータによると、1950年の都市と農村の人口割合は 29.1% 対 70.9% (ただし「都市」の定義の問題を吟味しなければならないけど)。比率は 3:7 。2005年、49.2% 対 50.8%。50年でおおよそ 5:5 の比率に。近い将来逆転する。ひょっとして僕が生きている間に 7:3 へ書き換えられるかもしれない。

非科学的でまやかしを書く。感情にまかせて。二つの眼。幸いにも見えている(でも「見えて」いないけど)。信じられないほど精密に進化した両眼は外界の焦点を合わせるために使うんじゃない。正常に機能する両眼を授かったなら矛盾を発見するために使いたい。片方の眼には「自信」があり片方の眼には「内省」がある。あるいは「経験」と「概念」。両眼に対立事項をはめこんでいく。

二つの眼で周りを見たいと思う、眼差し。