diary

飽顔

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2011.01.08 晴れ

気温は低く肌寒い。リビングのカーテンを全開(ということは外から丸見え) 。朝陽が部屋に差し込み暖かい。ポカポカ。山頂の平野や中腹の盆地で家を建てる時、周りに高層ビルや障害物が少なければ暖かいかもしれない。森博嗣先生の日記を読んでそう思った。日記の写真は積雪。30cmぐらいは積もっていそう。最高気温がマイナスの日もあり。でも暖かそう。家の中はもちろんポカポカだって。

難波から恵比寿まで行く用事があったのでアップルストア心斎橋に立ち寄る。目当ては MacBook Air 11inch。もう何度も見ているので何を今さら感がアリアリなんだけど、これまでの見方の前提は僕であって、今日の前提は他人なのだよ < 自分って自らを言い聞かせる、までもない、ただ触りたいだけであり、デフォルトのレスポンスを真顔でチェック、心の中はニヤニヤ、他人の体感速度を想像しながら確認、なんて不可能ですよ、いや、承知してるんだって、でも触りたいのです、そうやって。

2010/12/18の打ち合わせでO先生は今回のリニューアルサイトを評価してくださった。ありていにいえばお褒めに与った(自分で書くと何だか生臭くなるな、やっぱり)。その質感を覚えている。嬉しい感情なんだけど、今までの嬉しさと異なる。

先生の言祝ぐに喜んだんじゃないんだよね。顔、それは表情と云っていい。先生の表情に僕の身体は反応した。「ありがとう」や「おつかれさま」、「ここまで作り込んでくださって感謝です」とか、そういう言葉を賜ったとき、これまでの僕は喜んでいた。今回は違った。その言葉よりも表情に反応した。

どうして言葉より表情なんだ? 探しあぐねている。自己観察の中にいる。今のところ顔に飢えているんですよって答えるかな。

一歩外へ出ればたくさんの顔を見る。見るけど視るじゃない。顔と出合う。出合うけど出会うじゃない。スーパーでのお買い物や散歩で顔と遭遇する。刹那のすれ違い。一瞥。一日ですれ違う顔はどれぐらいかな。なかにはビット化されてアーカイブされる顔はある。保存されても顔貌を再生できる顔面は少ない。

街中の顔と僕の顔の距離は「ベタな等距離」だなって思う。三人称の顔たち。それに対して隣人の顔はベタな等距離じゃない。距離は近くや遠く。そして測り損ねたり。隣人の顔は二人称、あなたの顔である。彼、彼女らの顔とは明確な差異を持つ。

街中ですれ違う顔や電車のなかで三人称の顔を見る。僕は顔の背景を知らない。顔の背景に引きずられない。知らなくてすませられる。顔そのものの動きを観察できる。

ところが三人称の顔ばかりを観察していると僕の感度は低下していく。顔そのものの動きを観察しているつもりだったのにいつしか顔の表面だけを眺めていただけだった。そんな自分に気づく。なぜ感度が低下するのだろう。素顔と仮面を僕の方が分けられないからだ。三人称の顔とは、素顔と仮面が未分けの状態なんだと思う。

未分けの顔を眺め続ける。たくさんの顔が物珍しい。豊顔(造語です)。だけど感度の低下に気づかぬまま顔を眺めていればいつのまにか飽顔(造語です)に変わっている。変わっているのではない。僕が変わった。おそろしい顛末。三人称の顔が豊顔から飽顔へ転じたんじゃない。自分の顔が飽顔へ変容した。しかし一人称の顔は自分ではみえない。

素顔と仮面の未分けをわけてゆく。そしてわかってゆく。わけるからわかるへ。それは顔の背景の探索だ。距離との闘い。顔の面、顔の面が作り出す表面を見ているだけでは素顔と仮面をわけられない。素顔と仮面のグラデーションをわからない。

顔面から相貌へ。表面から表情へ。面から次元と次数を上げる。貌と情。

「各人にとってはじぶん自身がもっとも遠い者である」と云った人がいた。晩年に精神が崩壊したその人へ訊ねたい。私と他者の距離を測りたければ深淵をのぞくしかないのか、と。

すべてを手に入れるから満たされるのではないような気がするんだ。あらゆる顔をみても満たされないように。飢餓の人に飢えなんて言ったら死を宣告しているかもしれないが、顔と表情に飢えて僕は満たされる質感を取り戻したんだと思う。

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