diary

現場

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2011.01.15 曇時々晴れ

金曜日の夜、人身事故の影響をまともに受けた車中か、不摂生か、ストレスか(なんてない)、風邪かも。風邪としたら何年ぶり? 今朝は身体の節々が痛い。06:00頃に起きた。気怠い。仕事をしようか1秒だけまよってやめた。

M先生からのメールを着信。昨夜のミーティングのことやその他のこと。長文。感謝。丁寧に返信したつもりがあとから読み返して茫然。何を書いているのかさっぱりわからん。体調が芳しくない状態で長文を返信してはいかん。

あとはひたすら読書。ランチを食べた後に薬を飲んで2時間昼寝。

Amazonから 『ポール・ランド、デザインの授業』 Michael Kroeger が届く。80ページほどの本。すぐに読み終わる。奥は深すぎてまったく把握できない。ポール・ランドがジョン・デューイの 『経験としての芸術』 ジョン デューイ を賞賛(あるいは絶賛かも)しているので購入。購入といっても 『Art as Experience』 John Dewey を購入(もちろん英語を読めません)。それでも英語でよかった。他の言語なら辞書を引いても読めない。

1年に1回だけ原書を購入する悪癖がある。どうしても読みたいと思った本と限定して。今年はもうおしまい。この「どうしても」感は悩む。「何」が「どうして」なのかの屁理屈に陥る。屁理屈をこねくり回し倒す。今回は読み終えるのに5年はかかると思う、いやもっと。

きっかけは 愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ かな。コレ、日本語だと何だか上から目線な感じなのに英語だと異なる。そんなこともあって「どうしても」感だけの書だけはなるべく英語で。もし原書が他の言語だったら英語を読んでもあんまり意味ないと思いつつ。

デザインの授業はココに集約。

“Design is a relationship between form and content”

すべての芸術は関係だ。すべての芸術が、そこから始めるべきなんだ、それが出発点だ。デザインとは関係である。形と中身との関係だ。

関係? 形? 中身? ポール・ランドは 「デザインの基礎は、用語を自分で定義すること」とも云っている。なぜなら、自分のやっていることを理解しないと何も始まらないからだ。もっとも簡単で日常で使っている単語の前を僕は素通りしてしまっている。

先日、内田樹先生が Twitter でつぶやいていらっしゃった。

どうして理系の人の本は面白くて、文系の人の本はつまんないんだろう。文系の学者は仮説を検証する「現場」を持っていないからですね、たぶん。「自説の証明」のためにつごうよいフィールドを探す学者と、フィールドがあちらから飛び込んでくる学者の差は大きいです。

「現場」は括弧で括ってある。ということは「現場とは何か?」と立てられない。問いの次数を上げなければならない。でも何だろ? 現場の定義は?

昨年末に映画を鑑賞した。その内容について感想を書いた。僕は現場を持ったのか。そんなわけない。もし撮影を見学できたとしてその上で映画を鑑賞して寸評を書いたら現場を持ったのか。

僕はミーティングで「現場を知らない」と云う。おかしな話。ミーティングは現場ではなく診療している空間が現場である。どうして判定しているのか。

それでもミーティングが現場である、ワークショップが現場である、接触して言葉が飛び交って終わる場は現場である、と僕には言えない。反論。たとえ言葉が飛び交って終わっても「何か」が生まれるから現場だと自分へ反論する。なるほどそうだなとも思う。納得する。しかし自答自反に共感できない。強い違和感が残る。

僕はウェブサイトの打ち合わせでさえ現場と捉えていない。だから先生たちから現場を引き出したいと欲望する。ダイアローグが現場を引き出してくれるのか。不安を抱えている。

映画の例えを単語にはめこむとしたら体験だと僕は思う。体験と経験は違うのか。知らない。わからない。体と経の差異を定義できない。定義はあるだろう。それは誰かの定義。

日常の生活は現場か。現場であるなら文系の学者は現場を持っている。「ない」ということは、学問は日常の生活を現場にしてはいけないか、日常の生活は現場ではないとわけられる。

一回性と偶発性と予定が混濁している日常の生活はユニークである。個別の日常は再現しにくい。「あなたが勝手にそう思っただけ」としか反証できない。それは学問じゃないと思う。では学問は生活へ関われないのか。知らない。それは学問の方で考えてくれと思う。瀬名秀明先生はフィクションの中でこう書いた。

彼らが人間でなくなったのはいつからだろう。どんな物事でもその変化は目に見えず漸進的だが、六年前の総合科学技術会議の議論は、ひとつのきっかけであったのかもしれない。年間三千万以上の公的研究費を受ける研究者たちに、社会的アウトリーチ活動が義務づけられると報道された。折しもサイエンスコミュニケーションなる言葉が流行し、各地でサイエンスカフェなどの退屈なイベントが繰り返されていた時期だった。科学者はおおむね他人の話は聞かないが、人に自説を語ることは好む。そうした科学者らのたんなる個人的趣味が、科学を普及させるという高邁なボランティア精神と混同された。『NOVA 3—書き下ろし日本SFコレクション』 大森 望 P.378

現場への屁理屈をまだこねたりない。現場とは何かじゃない。「現場でない」コトは何か。現場でない状態。そこからアプローチしたい。現在の直観は一回性と偶発性と体験と経験。現場という集合の中にこれらの要素が含まれている。で、これらの要素をひとつひとつ解きほぐしていこう。一回性を説明するのに「一回性」を使ってはいけない。各要素のそれ自体を使わずに定義する。そしてその定義の群を使って「現場」を発見できたらよいな。

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