diary

書架

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2011.01.31 晴れ

“ここでキスして。” 椎名林檎がラジオから聞こえる。よいなぁ。「翳りゆく部屋」のカバーも好きだ。第七十二候、鶏始乳。鶏は夜明けを知らせる。長い冬の終わりと春の到来を告げるかのように。今年は美味い寒鰤を一度も食べていないとちょっと前に書いた。まだ食べていない。豊漁で安価になったというのに。ったく。鯛のあら炊きは好物なので1ヶ月に二三度食べる(うん? オーバーか、一、二度にしとこ)。あら炊きに牛蒡は必須だろと思う。大学受験の英語よりたぶん必須だよな。

F社のページを制作していたら、制作中の案件について問い合わせのメールが来たので読む。うむ、ひょっとしてペンディングするかもしれないのでとりあえず進めるとこまで制作して終わった。

02/02(水)にF先生と打ち合わせするので資料をじっくり見る。とてもよい状態。wikiのとおり法則が機能しているんだろな。僕が寄り添えることってあるかしら。何を求められているのか思い巡らす。巡り方がよろしくないみたい。

夕方、書架を整理して30冊ほど処分。それらの本を眺めておおよその金額を暗算、ハァ。一昨年は100冊ほど、昨年も40,50冊処分した。そのたびに、ハァ。メルロ=ポンティや認知意味論やその他のコレクションを買えたよな。なにせ高い(と書いたらとても失礼である)んだよ、自分の基準では。否、翻訳や解説を含めたら高いわけなく、高い安いのレイヤじゃないって重々納得しているのにカネに縛られる。バカだなと思う。

そう思う自分が現在である。そして未来の自分は、ため息をついている現在の自分を見てもっと大きなため息をついている。

書架と私の関係は物語と物語りの関係みたいだな。書架は過去の物語である。事実だ。たとえ覚えていなくても僕が購入して並べた。物語は事実であっても物語る自分は事実を語らない。そこには願望や韜晦や見栄など様々な感情と(無)意識が伏流している。それはもう一つの事実。立つ位置が変われば、その事実は嘘とも云う。

物語と物語りは必ずしも一致しない。物語は静的な時間であるが物語りは動的な時間。物語は連続した記号である。物語りは行為だ。物語りは時間と空間から強く影響を受ける。物語りは感情と(無)意識から刺激を受けながら過去・現在・未来を行ったり来たりする。物語りは空気を読んだり読まなかったり。

昨年の11月か12月、M先生のミーティングで僕の体験を話した。「どうですか?」と訊ねられたら困るって。冗談話として。以前、「いやぁ、どうですかと訊ねられても、あなたにお会いするまでの三ヶ月間いろいろあったからどうでしようもないです」って僕を診てくださっているDHの方をいじめちゃった。ごめんなさい。信頼しているから笑いながら言った。もちろんステキな返しがあってますます尊敬した。「どうですか?」は困るんだよね。表面的なような感じなんだ。なのに奥の深い滋味にあふれた放擲である。やっかいすぎるんだ。他方、「屁理屈」を述べているだけで「どうでもよい」という視点に立てば違った意見がある。おもしろすぎるだろと興奮しちゃったり。たった一言に。変態だな僕は。

と、ここまで書いていたら僕の頭の中の文脈はいきなり別の方角へ移動した。「自分にしかできない(と奢っていた)型でミーティングをやって失敗」して、いまは「誰でもできる(と認識している)型のミーティングをやって安定」している皮肉な話を書きたくなった。明日だな、否、書くかな、気まぐれ。

立つ鳥跡を濁さずというのは、自分の型にはめてしか仕事できない人が収集つかなくなって立ち去るから周りは混乱するよって戒めでしょうって思う。たぶん。

僕がやっていることは誰でもできるんです。その現実を直視したくないから「私にしかできない」型の幻想を見ちゃう。見えちゃう。ちゃうちゃう。

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