diary

随伴

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2011.02.08 曇のち雨

寒気が少し戻った感じ。夜から雨。久しぶり。1月って雨は降ったかな? 覚えていない。乾燥が続いてカラカラだったとか。酒を飲まなくなって13日目。飲まなくてもまったくさしつかえない。実感。そういうもんだな、やっぱり。

先週の土曜日、京都伊勢丹の紳士フロアへ。ウィングチップのブーツを探している。予算はカスタマイズも含めて10万円ぐらい。ちょっとぐらいオーバーしてもよいかなと。本体7万円+カスタマイズ3万円ぐらいか。第一候補はTricker’s。いますぐ買うわけじゃなく吟味したい。まぁ京都伊勢丹では買わない。断言できる。スタッフのふるまいを目の当たりにしてそう感じた。

今を楽観して将来を悲観するより今を悲観して将来を楽観するほうが健全だと思っている。といっても先はそれほど考えていない。39歳目前にしてようやくほんのちょっぴりわかってきた。常にひとつであると。靴がいくつあろうと履けるのはひとつ。服もしかり。同時刻、異空間で自分は複数存在しない。それがきっかけ。「ひとつである」ということを思念しはじめた。

ロスクレアというアイルランド中部の小さな町に泊まったとき、ホテルの近くのパブに入った。夜の九時ぐらい、軽い食事のあとなんとなく手持ちぶさたで、本を片手に一杯飲みたかったのだ。店はとても混み合っていた。僕がカウンターでブッシュミルズを注文して、一人でぽつんとグラスを傾けていると、七十歳ぐらいの男がやはり一人で店に入ってきた。

白髪で、きちんと背広を着こみ、ネクタイを結んでいる。背広もシャツもネクタイもそれぞれに節度正しく、必要十分に清潔で、乱れというようなものはない。しかし近くでよくよく見ると、ひとつひとつの布地に隠すことのできない疲弊の色が浮かんでいることがわかる。もちろんそれらがそれらなりに見事な光沢を放った日々もあったのだろうが、そのような輝かしい日々が、ジミー・カーターが米国大統領に就任する以前の時代に属するであろうことについては、いささかの金をかけてもいいと僕は思った。もちろん賭が成立するとしての話だが。

『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』 村上 春樹 P.97-100

この件がとても好きだ。背広を着た老人が一杯のウィスキーを飲んでお店を出るまでの描写がこのあとに続く。ステキなシーンだ。

手入れを怠らず身の回りのものを丁寧に使い込みモノと生活をともにする。そういった感覚をようやく理解できるようになってきた。それでもほんのわずかな理解。皮膚感覚まで拡張できていない。頭の中に残留していた断片を拾い集めて暮らしていくことを具現するために身の回りのモノを吟味しはじめた。スタートラインに立ったぐらいである。スタートラインから一歩進んで失敗すれば皮膚感覚まで拡張できたと書けるだろう。

手入れ、という言葉がある。いままでの生活のなかでどれぐらい口にしたかな。記憶を完璧に再生できるなら即座に計算できる回数だと確信する。確信できるほど口にした回数は少ない。手入れという言葉とは無縁だった。

よい状態を保つためにとりしきる。モノが増えると難しい。かけがえのないモノとして扱い末永く使うために手入れするんじゃない。そんな気がする。よい物は長持ちするという。違う。原因と結果ではない。手入れするから長持ちする。それがよい物である。いまここにあるひとつのもの。いまはよい物と云わず、高いモノか安いモノかで判定されてしまう。貨幣と価値に換算する自分。

たぶん順序が逆である。高い物は長持ちするじゃなくて、手入れするから長持ちした結果のよいモノ。そこには「ひとつ」であることを知っている。老人の件を読んで、そんな気がする。

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