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2011.02.09 雨のち曇

体調が下降気味。平坦からほんのちょっぴり凹みがある。急下降したくないので慎重を期して身体をメンテナンスする。寒さが戻ってきた。週末は大雪とか。明日、この日記を書いている時点では今日、お世話になっている方のお嬢様が高校受験のはず。

天智天皇を祭神とした神宮まで少し歩いて帰宅後、F社のページ制作。午前中で切り上げて午後から夕方までリスティング広告の調査。この分野は表面しか知らない。正直、コミットメントしたくない。希望があるので引き受けるが、ダメなら専門の業者へ依頼してほしいと説明するつもり。

夕方からF社のA氏と近所で打ち合わせ。新しいサイトの制作について。初めての試みなのでイメージを描けない。僕は理屈で考えてしまっているのがいけないようだ。前提が異なっているな、と思う。が、平仄が合わないまでではない。やってみなければわからないこととやる前に吟味しておかなければならないことのそりを合わせにくい感じ。

昨日、「ひとつである」ことを書いた。後で読み返して原因と結果じゃないと書いたすぐあとに「結果」と書いてあった。赤面。そういうもの。即興で書く文意は綻び文型は稚拙である。恥をかいて次が浮かぶ。違うな、熟考しても文意は破綻して稚拙、変わらない。即興と文意は関係ない。頭の切れ味と発想が煌びやかな文章を生産する。頭の切れ味は鈍い。鈍いなりに素材を解釈するしかない。

昨日の文章を読み返す。知足が浮かび上がる。足を知れと云う。老子(第33章)「足るを知る者は富む」現状を満ち足りたものと理解し、不満を持たないこと。「足を知る」の時間は線形である。そう思う。一本の直線を引き、真ん中に点を打つ。それが現在の状態。左に過去、右に未来を配置する。その直線を眺める僕がいる。過去と比較して未来の欲望を戒める。そんなイメージを僕は描く。

高価な代物は長持ちする。これも同じく時間は直線。未来に対して長持ちするという願いが込められている。高価な代物は、その代物自身があたかも自ら組織化してメンテナンスしてくれるような錯覚を抱かせる。

「ひとつである」ことは足を知るから距離を置く。知足ですらない。満足も不満足もない。いま目の前にある代物を過去や未来と関係なく手を入れてよい状態にしておく。手入れの意識すらなくなるぐらい手入れは生活の律動へ組み込まれる。銅製の卵焼き器でだし巻きを作った後、僕の手は自然に動き汚れを拭き取り最後は油を塗って元の場所へ返される。その間、僕の意識は手入れの単語を一度も抽出してこない。

「ひとつである」ことは多があっての一じゃないと感じる。はじめから一である。多から削り落として残った一もある。ひょっとして「ひとつである」ことすら他者の評価じゃないか、なんて空想を僕は描く。一つしかしか知らないんだから、ひとつやふたつもへったくれもない。他者から見たら一つと数えられるけど、当人にとっては、「コレ」しかない。数から質への転換なのかな。わからない。

うわぁ、文献管理ソフトについて書こうと思っていたのにまったく違う内容を書いているといま気づいた。まぁ、いいや、このままアップします。