diary

滑稽

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2011.03.08 曇

日の出が早くなった。目が覚めたら空はうっすら明るい。少し前まで暗かった。

午前中、F社のアクセスログの解析とSEO対策。午後からO先生のリスティング広告をチェック、アクセスログ解析。M先生のコンセプトを考える時間を確保できない。うむ、焦り。

夕方、散歩。書店で『ケアの本質―生きることの意味』 ゆみる出版 を購入。思わず場所で見つけられて嬉しい。

ラジオで耳にしたりTwitterで目にする政治のニュース。前後に暮れる。連呼に明け暮れる。他者へ吐いた言葉はやがて自分の手元足元へ戻ってくる。襲いかかる。違うかな。他者へ吐いた言葉は自分の影となる。ただほんとうの影と違って見えない。『足の裏に影はあるか? ないか? 哲学随想』 入不二基義 みたいなもんだ。

政治のニュースから学ぶ。

人は他者から受けた不愉快な行為を記憶しているけれど立場が変わってまったく同じ行為を他者へ与えても人は思い出せない。

自戒。

月曜日、国民健康保険の扶養から家人を抜くために市役所へ行った。自分の順番を待っている間、『意識に直接与えられているものについての試論 (新訳ベルクソン全集(第1巻))』 アンリ ベルクソン を読む。国民年金と国民健康保険の手続きを対応するために8人が対応していた。

ひときわ大きな声で説明する二人。市役所の人。二人は地元の言葉でしゃべって対等の立場を表現。それが共通点。地元の言葉を使って丁寧をほんの少し除去すれば、親しみを演出できると考えているかもしれません。丁寧を除去しすぎたら上から目線な口の利き方と受け止められる。僕はすでにそう受け止めていた。説明を受けている人がどんなふうに受け止めたかまで知らない。

二人と僕とでは丁寧と敬語の定義が違うだけだ。腹が立ったり苛立ったりしない。順番が回ってきて片方の人に対応してもらったが定義の違いを再確認できた。

そういうもの。声の大きいふるまいによって声の小さいふるまいが消える。見えにくい。少数の奇抜なふるまいは目立ってあたりまえなんだけど、周りが精神的にゆったりしていなければ、少数の奇抜なふるまいは咎められる。

現象の構造が同じでも初めての手口であったり斬新な手段であれば大騒ぎする。加えて時と場所が際立っていて罪を犯したならば、人を殺したような、あるいはそれ以上の騒ぎである。

多数の人は少数の奇想天外なふるまいによってダメージをうける。批判がどっと押し寄せる。不公平、不平等、正直者が馬鹿を見る…..などなど。実害を被っていない人も参入。正義。奇想天外なふるまいを押さえ込もうと規律を立てる。制限。厳しく。より厳しく。

多数は規律の中に含まれるから不便を強いられる。不便はストレスを誘い起こす。緊張、不安、恐怖、不満。それらの単語は辞書で調べたら見えるけど、街中の空気に混じり込んでいたら見えない。人々の顔を伺って充満しているかどうなを推し測るぐらいだ。

やがて充満して破裂。やぶれた「感情」は寛容を失う。何かが起こればそちらへ。何かをしでかしたらそちらへ。感情は東奔西走。「誰か」を特定して祭り上げるまで止まらない。

寛容を失い、制限は厳しくなり、多数はさらにストレスがたまり、やぶれてさらに寛容を失う。寛容の濃度が薄くなればなるほど制限の度合いが大きくなる。

循環してる。「悪」をつけるかどうか悩ましい。

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