diary

婉然

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2011.04.10 晴れ

清明。第十四候、鴻雁北。あたたかな陽射し。穏やかな空気。冬を過ごした雁が北へ去り代わりに燕がやってくる。鰹を目にする。少し早いよね? 春キャベツと新じゃがいも。高いも安いもない。ただ食べたいから買う。丁寧に作ってくださった旬を味わう。

近所の公園へ出かける。桜が七分咲きほど。人、人、人。公園の遊具で遊ぶ子供を見るのが好き。怪しまれないように眺める。かけがえのないものを見ているような気持ちが起動する。今までと異なる自分を見つけた。

車が駐車場へぞくぞくと進入してくる。が、スペースはない。一般道へ。歩けばあちらこちらで煙の臭い。違法も合法もない。ただ空いているから駐める。ただ食べたいから焼く。翌日の同時刻に歩けば、ゴミ捨て場のない静まりかえった公園はゴミを吐きだしている。

M先生のミーティングで口腔内写真の撮影を研修してからまた写欲がわいてきた。時間をつくって歩いて撮影したいな。

1ヶ月。書かなかった。数日前、友人からメールがきた。ブログが更新されていないから少し心配だと書いてあった。最後に会ったのはいつ? 一昨年? もう少し前? 年に数回、否、数回もないかなぁ、メールでやりとりする。なのに後頭葉の視覚野あたりに質感がいつも残っている。友人の残像と音声をアーカイブするために脳は正常に機能して何%かのリソースを使っている。コンマ数%かもしれないけれど、ひとりのためにリソースを使えることは幸せだ。

他者の声や文によって自分がいることを体感する。友人は僕をキーボードへ向かわせてくれた。深謝。

コトが途切れた。連続を失った自分への動揺。冷静と動揺。二つの様態が同居している。二つの様態をいまほどはっきり自覚できたことはなかった。はじめての経験。目の前のコトを淡々と片付けて過ごす。穏やかな日々。冷静な自分。冷えていく。かと思えば、もう一つの外見。あの日から続くエゴイズム。当事者でないコトを想像する動揺。自己愛。自己陶酔。自己韜晦。

むかしから抱えていた自己愛と自己陶酔と自己韜晦が一気に現れて、それを隠せなくなってうろたえる。

連続を失ってからのきっかけ。大切だ。きっかけを探して目の前のコトと遠い場所で起こったコトを一つの鉢にいれてすり潰す。ゆっくりと少しずつ。

F先生のデータベースとウェブサイト。ずっとかかっている。データベースのサンプルを作り上げた。一度ご覧いただかなくては。レセコンからデータをエクスポートして基幹DBにインポートして今回のサンプルとリレーションできれば、拡張していけそうな「小さく産んで大きく育てる院内データベース」を構築できそうだ。ただ僕がそこまでの技術を身につけられるかどうか。データベースの知識はゼロ。

M先生のブランディングをライティング。体力と知力がいる作業。おもしろい。先生のサイトとブログと過去のメモ。足かけ10年、お付き合いいただいた軌跡を遡る。時針が数字から数字へ移動する。速度がはやい。

昨年から利用されていると僕は感じていた。勝手に。矜持や自尊心はあって構わない。ただ矜持と礼節を制御統制できていないと僕の目には映った。その状態を高慢と判定した。そんな人を信用しかけていた自分。そんな自分は見苦しい。自己嫌悪していた日々。そして震災。震災は隠れていた自己愛と陶酔と韜晦をスポットに引きずり出した。

この記述自体が自己愛、陶酔、韜晦だ。

少しずつ。

南直哉先生が永平寺時代に一度も怒らない先輩へ訊ねたときの言葉。

「いいじゃないか。だめになるのはそいつ一人なんだから」

『考える人 2011年 05月号 [雑誌]』 新潮社

この言葉を自身へインストール。矜持と礼節を制御統制するために自律しなければならない。「利用される」って単語は僕の語彙からデリート。そして「利用する」へ二重下線。さらに太文字。「利用する」つもりはなくても僕は誰かを利用している。「される」と「する」をわけへだてられない。メタへ拡張して意識しなければ。「利用される」レイヤから惑わされるゆとりはない。他人を怒ったり他人へ苛立ったりする時間は僕には残されていない。

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