diary

調和

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2011.04.11 曇のち晴れ

朝夕はまだ肌寒い。日中、陽射しがあたれば暖かい。夜中、野良猫が鳴いて閉口。昼間、植木を巡行。糞をされたらたまんない。鳴き声はダメ。猫本体はダメじゃない。鳴き声のほう。聞こえてきたら身体はピクン。

小学生の頃、顔面をおもいきりひっかかれたからかなぁ。いか焼き屋(姿焼きではない)に置いてあったかごに布がかぶせられていた。なんだろって布をめくった。その瞬間までの映像が保存されている。そこから先の映像は途切れている。保存されていても再生できないのかも。エルンスト・マッハの絵のように自分の手が布をつかむ瞬間まで保存されてる。ほんとに。

後年、母親曰く、「酷い顔、自業自得」だとか。なににでも興味をもつことはかまわないけどもうちょっと気をつけなさいと怒られた、らしい。まぁ、それは母親の模造記憶でしょう。僕の模造記憶?

土曜日の夜に届いたアルバイトの資料ととっくみあい。終日、入力。今月はたいへん。三月末のB/SとP/L、キャッシュフローを眺める。いろいろ感じる。つらつら思う。あらあら困る。資金管理表との誤差は? 予算と実績。さじ加減は難しい。

先日、『ハーモニー (ハヤカワ文庫JA)』 伊藤 計劃 の二回目を読了。数回読んだ 『虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)』 後のセカイ。 伊藤 計劃氏の作品をもう読めないなんて、ってあらためて痛感。表現にふれればふれただけ痛感は深く強く。

人類は大規模な福祉厚生社会を築きあげて健康を「外注」した。そんなセカイを襲った大混乱。

迷いがなくなれば、選択もない。選択がなければ、すべてはそう在るだけだ。その風景は、いままでの風景とまったく代わり映えしないものであることも判っている。人間の意識がこれまでも大したことをしてこなかった以上、それが無くなったところで何が変わるというわけでもあるまい。

『ハーモニー』 P.348

健康を「外注」した、検索を「外注」した、個人情報を「公開」したセカイ。リアルな今の世界でも少しずつ少しずつ健康の「外注」は進んでいる。当事者なのに気づかないスピードで。気がつけば公衆電話が消えつつあるみたいに。監視しても気づかない、ちがうかな、観察しても気づけない、否否、観察すらできないかも。

定義なんておっくう。セカイは健康の定義を議論して記述していないように実際の世の中も定義や概念をたぶん遠ざける。もっともっと具体的なコトがもとめられる。求める。理解されるコトは具体的。

『養老孟司の大言論〈2〉嫌いなことから、人は学ぶ (養老孟司の大言論 2)』 に登場する若原弘之氏について、内田樹先生は巻末の対談で「わかった」と評した。氏のふるまいや法螺話?は頭で理解させるよりからだをうごかしてわからさせる。

健康の定義はひとつじゃないけれど健康の状態はひとつへ集めて束ねられる。ヒトは「ひとつ」の選択肢(もう「選択」ではないんだけど)を求めてしまいかねない。一般の人が医療の専門家へ質問する。その質問は個別的。おどろくほど具体的。そのなかにはそれぞれの生活。暮らしから次数をひとつあげて他人の生活へ拡張できるような言動は、時に質問者を惑わせる。困らせる。

マルかバツかじゃなくて選択肢が多い状態は恵まれている、はずなんだけど、それを互いが分かち合えるには時を要する。ながいながい時間。

いまの手応え。具体的な記述のまま「選択肢」を差し出せる「懐の深さ」を表現する。個別の事例をハウツーにまとめてリストしない。物語るけれど物語じゃない微妙で丁寧な表現がブランディングのコアだとみえてきた。ただし多くを物語ってはいけない。

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