明眼

2011.05.02 黄砂

黄砂が飛散。大津の山々がかすむ。ラジオから洗濯物に注意との声。干したら乾くけど砂の粒子が付着して洗濯・洗車する前の状態よりひどくなりそう。前日つくったカレーが(いまのところ)今年いちばんの出来で気分がよい。今晩の焼きカレーにそなえて朝からわくわく。お昼は一昨日につくった鯛めし一膳と野菜スープ。

終日WP制作。ルックスは85%ぐらいまで制作できた。黒が基調のルックス。何色かの黒系を使い分ける。シンプルだけどパーツや要所で立体感を意識。のっぺりに気をつけて。あとはショッピングカートの実装。これが手間取る。悩む。難しい。

夕方、F社のA氏と打ち合わせ。16:00開始、16:30終了。

昨日から 『正法眼蔵随聞記 (ちくま学芸文庫)』 筑摩書房 をひとつずつ読む。

正法眼蔵随聞記一 一 はづべくんば明眼の人をはづべし

『正法眼蔵随聞記 (ちくま学芸文庫)』 筑摩書房 P.9

時々の状態によって受け止め方が異なりそう。批判に謙虚になりすぎるな、批判を吟味しろ、といまの僕は解釈した。じゃぁ物の道理を見通せる人を見極めるには? との疑問がよぎる。二十代なら批判をうまくこなした処世術と読んだかもしれない。

事柄を抽象化して記された綺麗事にふれたとき、それを受けとめる人間は、いまここにいる自分の条件にあてはめて考える。解釈の選択肢を持つ文章は時代の濾過装置によって不純物が取りのぞかれる。純粋は逞しく力強く簡素だ。

昨日、「考えるって便利な言葉だな」ってツイートした。「考えておきます」って言葉はまるで何もしないことを確認するために集まる会議みたい。森博嗣先生の日記が常に頭にある。

「考える」という言葉を非常に安易に使っている人が多いと思う。学生に「考えてきたか?」と尋ねると、「考えましたが、ちょっと良い案を思いつかなくて」と言う。「じゃあ、悪い案を幾つか見せなさい」と言うと、きょとんとした顔で、「いえ、悪い案も思いついていません」と言う。「考えましたが、まだ、ちょっとまとまらなくて」と言うから、「では、まとまらないものを見せて下さい」と言っても、たいてい見せてもらえない。

こういうのは、僕の場合「考えた」とはいわないのである。「いろいろ考えてはいるんですけどね」と言い訳する人には、その「いろいろ考えたものを見せてくれ」と頼む。ところが、たいていは、せいぜいあっても1つしか案がない。1つの案しかないのに「いろいろ」なんて言うなよ、と思う。1つでは選べない。これでは何を考えていたのか、問いたくなる。

『MORI LOG ACADEMY 9 (モリログ・アカデミィ 9) (ダ・ヴィンチブックス)』 森 博嗣 P.188

「考えた」ではなく「考えようとした」、「悩んだ」ではなく「悩もうとした」と先生は書く。

私以外の「考えようした → 考えた、悩もうとした → 悩んだ」の推移を私は経験できない。相手が考えたか、考えていないのか、どちらかは推し測るしかない。そのうえで主観的な評価をくだす。

「私はやる」か「私はやらない」の判断を他人へ訊ねる。それが「どうしたらいいですか?」だと思う。前後の文脈なしにこのフレーズだけ切り出すと、指示された仕事のやり方を知らないから「どうしたらいいですか?」の質問もあてはまってしまう。それは除外。

私のコトであっても、やるかやらないかの「吟味の経過」を他者へ依頼する。まっとうな人はすなおにうけとめて「やったほうがよいか」か「やらないほうがよいか」を助言するだろうし、至極まっとうな人は、他人の「やる」か「やらない」の判断をくだす。

年齢は関係ない。十代の人でも自分のコトを「考え」てやるかやらないか判断するだろうし、歳を重ねても自分ことを「考えられない」し、やるかやらないかの判断を依頼する。

良い悪いではない。僕は、「どうしたらいいですか?」と訊ねられる機会を減らすように「考え」て、相手とかかわり合うことを「やる」か「やらないか」の判断を積み重ねていく。それをやっていくだけ。

黙考、判断、実行の3つ。言葉にすれば簡単なんだけど。それを実践できないから自身に苛立つなあ。