diary

気色

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2011.06.17-19 週末 お天気不安定

ざるそば

第二十七候、梅子黄。梅酒用の梅や砂糖、焼酎やらが陳列されている。それをみるたび漬けてあったやつがあったなあ、そういえば。さてどうしよう。家で飲まなくなったから放置プレイ状態。26,7歳のころ20年物と30年物を飲んだ。自分より年をとった梅酒をはじめた飲んだ。味を忘れた。なんだ、コレ!! だけ記憶に残っている。

梅雨は梅の実が熟す頃の雨、読み方をかえると「梅雨」。梅を黴にかえて「黴雨」とも書くらしい。ほぉ。

週末はひとりで過ごす。よい週末であった。C社の制作がすすみ読書も調子よい。『かくれた次元』 エドワード・ホール に興奮。視覚と聴覚、特に視覚に依存するヒトが知覚する空間。「はらわたが煮えくり返る」「冷たい目つき」って表現はことばのあやだと思っていたけれど、そうではないって納得。空間と温度の知覚。もし現代人がヒト以外の動物並みの嗅覚を維持していたら個体数は減少しているかもしれない。そんなふうに感じた。

筆者の指摘どおり、「コミュニケーションというものは、本来そのごくはじめの、あまり明確でない段階では、その内容のごく一部が紙の上に書かれるだけ(まえがき)」なんだ。「わかった」ことしか書いてないし、「わかる」ことしか読まない。

どうして書いてない? 書き手は、「書けないこと」を文脈の間に勝手に挿入して話をすすめている。

ウェブサイトを制作していたらでくわす。他者が書いた文章を読んでとまどう。人は自分が理解できていない事象を欠落させて文章を書く。反対に人は自分が理解している事象を欠落させて文章を書く。両者の共通点は、「言葉にできないことを無意識的に欠落させている」である。欠落させているというより、書けない。あたりまえの話なんだけどね。欠落の頻度が高い文章は読み手を困惑させる。

自分が制作したサイトの文章について他者から指摘されて「欠落させていた」ことにはじめて気づく。それを重々承知して制作していても毎度つまづく。そのたびに凹。

何度も書いているけど、いまのコミュニケーションを語る場は「言葉」に依存しすぎているとぼくは感じる。だから本を読めだとか、しゃべり方やら、ボディーランゲージとかに焦点があてられる。トートロジーの説明ですら気づけていない。

本屋で 『我と汝・対話 (岩波文庫 青 655-1)』 マルティン・ブーバー『あなたのための物語 (ハヤカワ文庫JA)』 長谷 敏司 を購入。

正法眼蔵随聞記 九 昔、智覚禅師と云っし人

正法眼蔵随聞記 ちくま学芸文庫 P.105

話そのものよりも皇帝が臣下に指示した言葉が記憶に残った。

「この臣は才人なり、賢者なり。今ことさらこノ罪を犯す、若シ深キ心有ランか。若シ頸を斬ラン時、悲シミ愁たる気色有ラば、速ヤカに斬ルベシ。若シその気色無クんば、定めて深キ心有り。斬ルベカラず。」

ふつう逆である。「視点」というのはこれだ。ずっとそこにあるけれど気づいていない。指摘されてはじめて「そこにあった」コトが浮かび上がってくる。

あたりまえを疑って見える「視点」や経験が導く眺望点から見える「視点」。

JALの入社式 今と昔

以前にも紹介したJALの入社式の写真。何が変わったのかときおり吟味します。2枚の写真を良い悪いで論じたくありません。現在の写真を見たら北朝鮮みたいだとも確かに思う。

先日、歯科検診にいったときに待合室やチェアを眺めていていくつかの疑問がよぎって消えていった。夢みたい。輪郭は覚えているけれど、思いついた煌びやかな風景と物語を再生できない。

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