diary

異躰

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2011.06.27 晴れ

降らんなあ。梅雨の中休みじゃなく長期休暇を取得されましたか。もう来年まで休みますよ。近畿のみなさん、さようなら。梅雨入りと報じられた5月のあの頃は大雨が続いたけどそれ以来、まとまった雨は少なかったような。

第二十九候、菖蒲華。里の家から電車にのって20分ほどの場所に菖蒲池って遊園地があった。もうない。いまはどうなってるのかしら。菖蒲池はいまのアヤメ科のアヤメか、サトイモ科のショウブか。どっち? どうでもいいか。

今週で6月も終わり。晦日は大祓。夏越の祓。私はなにを祓いましょうか。

午前中、メンテ。Macは週1回メンテ、サーバーは月1回メンテ。iCalにスケジュールを登録して知らせるように設定してある。予定は先週の土曜日だったけど密林から到着した『最終講義-生き延びるための六講 (生きる技術!叢書)』 内田 樹 を読んだのでパスしていた。

「自分の中に記憶されていた言葉と、それに対応する身体実感が対になる」(同P.217)を読んではっとなった。はじめに言葉ありき。

言葉は空白をつくる、身体は空白を埋める。近頃、そう感じるようになった。まえは違った。言葉を覚えたら理解できる。自分の体験をだれかに説明したくて言葉を覚える。覚えた言葉をつかって文脈をつみかさねて物語をつくって相手へ伝達する。それが理解と考えていた。いまでもその考えをもっている。けれど、どうも物事の片側しか見えていないような感じだ。

言葉は既知をこわして未知をいれこむ隙間を生み出す。隙間から空白へ。

「させていただきます」という言い回しが敬語として定着している。あるとき、「させていただきます」に対する「他者の思念」を読み、慇懃無礼だと感じる「他者の感覚」に接した。そのとき、ぼくが抱いていた感覚は違和感なんだって気づいた。「させていただきます」に対する耳障りな感覚。

既知が未知に変わった。「他者の思念」と「他者の感覚」の言葉が自分のなかのスペースをむりやりこじあける。隙間が生まれ空白へとひろがっていく。

それから自分の身体は「させていただきます」をどんなふうに受け止めているかを観察しはじめた。「させていただきます」が慇懃無礼に感じる文脈と感じない状況がある。身体はふたつを仕訳する。仕訳の精度が向上してきたと納得できたら身体は空白へ知を埋めていく。

「させていただきます」はいずれ正しい用法になるだろうし、いまもそうなっているかもしれないけど、自分の身体実感が堆積されていない言葉について「理解」はうかつにはてはめられないなあっていまのぼくは考える。

言葉を入力すれば空白がうまれる。入力する。空白はひろがる。どんどんひろがる。その空白を身体がうめなければ、身体実感が堆積しなければ、「すべてわかった」ふうになってしまう。「見えちゃってる」ってやつだ。する前から結果がわかっている。

いま書いてきた内容は、身体実感が堆積されていない。だから上滑りしている。書きながらぜんせんしっくりきていない自分を感じている。

15:30からC社のH氏とJR京都駅で打ち合わせ。サイトの進捗状況の報告とサーバー移転の説明。あとはH氏のお話を伺う。17:30終了。

H氏のお話を伺ってふたたび痛感した。「何かひどいことをしたのに、だれもあえて何も言おうとしないなら、事態は深刻だ」(『最後の授業 ぼくの命があるうちに』 ランディ パウシュ, ジェフリー ザスロー P.56)ということ。なにもいわれないことを自覚できない恐怖。

ぼくにはすでにもう何も言わなくなった人がいる。ぼくのなかでは存在しないのと同じ。何をしようが、何を言ってこようが、関心はないし、好きにすればよいと思っている。あとは相手とぼくがかかわる部分の領域に対して責務を果たすだけだ。

ということは、僕も知らず知らず誰かからそのようにふるまわれているかもしれないということ。どれだけしつこく自分に言い聞かせても、自分は天狗になっている。いいかえれば不遜、横柄、尊大、傲慢という言葉がつくる空白を身体が埋めるのはとても困難なことなんだね。

今日は、長くなったので正法眼蔵随聞記はなし。

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