悪事

2011.07.04 曇のち雨

MacBook early 2011 17inch

室内気温30℃。室内湿度70%。体感気温40℃。体感湿度90%。室温計を買ってわかりました。体感センサーはあてにならない。でも体感センサーにひきづられます。ラジオから聞こえる関西電力からのお願い。ココは北朝鮮か(行ったことないけど)。「テレビでエアコンのスイッチを切ってくださいってテロップをだしてくれないか」って何かで読んだけど冗談ですよね? 関西の住民はみんなおこちゃまだからしつけないといけないと思われているのかしら。

紫陽花が終わりにむかっている。里の母親に紫陽花の色について聞いてみた。何年か前に贈った紫陽花は土を変えるたびに花の色が違うそうだ。そうなのか!

第三十候、半夏生。この時期は酒肉を禁じ野菜を摂らないなど、物忌みが多かったらしい。何を食べていたんだ? 今の時期の大雨は半夏雨とよばれる。そろそろ紫蘇を食べてさっぱりしたい。ささみを焼いて梅肉と青紫蘇で食べてよし、赤紫蘇の漬物もよい(ただし赤色○号はお断り)。

終日、MacBook Pro early 2011 17inchのセッティング。ATOKの設定がやりやすくなった。日本語入力システムはATOKを使っている。ATOKに「広辞苑」「明鏡国語辞典」「角川類語新辞典」「共同通信社 記者ハンドブック校正辞書」「ロングマン英英辞典/英和辞典」「ジーニアス英和辞典/和英辞典」を登録してある。だからATOKなしでは文章を入力できない。

単語登録したユーザー辞書は、Dropboxに登録して他のMacと共有。ATOKをインストールした直後、ユーザー辞書をDropboxに変更すれば、すぐに使える。たとえば、「あいさつ」と入力すれば、「いつもたいへんお世話になります。○○○@仕事場です。」と変換される。「自宅」と入力したら「自宅の住所」に変換とか。共有しているMacと入力変換が統一されて、単語登録はDropbox経由で各Macの辞書が同期される。DropboxのおかげでATOKの作業効率が数倍になった。

これまでMacBook Pro Late 2006 15inchを使っていた。ディスプレイの解像度はの1440×900。5年前、広いディスプレイだなあって感じた。いまではMacBook Air 13inchと同じ解像度。技術の進歩。そして17inchの1920×1200を体感したら15inchにもどれない。17inchを1時間使って15inchのディスプレイを見たら違和感があった。人間の慣れに驚いた。

27inch LED Displayを接続すれば解像度は2560×1440だから、17inchを買うなんて酔狂だよ。それならiMac Early 2011 27inchのSSDモデルを購入する。体感速度と作業速度が向上する。17inch ultimate modelでもiMac SSDモデルに勝るわけがない。SSDの速度はMacBook Airで証明済み。解像度も申し分ない。広すぎるぐらいだ(広すぎると事務系ソフトはかえって見にくくなる)。

どうして17inchを選んだのと聞かれたら、家の中で持ち運べる1920×1200のラップトップが欲しかったって回答しかできない。バカな回答だな。狭小の部屋のなかを3kgもあるラップトップを持ち歩くならiPad 2で充分のはずなのに。我ながらほんもののバカだなあと思う。

iPad 2を購入して 賢者のアップル美学:夏野剛–「携帯とiPad。それだけで十分」 – CNET Japan に賛成できるようになった。それぞれのスタイルがあるからスマートフォン+ラップトップでもよいと思う。ぼくのスタイルではガラケー+iPad 2で充分ということ。iPhone 4一台で充分って人もいる。

正法眼蔵随聞記 十五 世人多く善事を成す時は

正法眼蔵随聞記 ちくま学芸文庫 P.133

論理学の文章みたいだ(論理学が何か知らないのに使っている)。論理的な文章だ(論理的の意味を知らずに使っている)。

「世人多く善事を成す時は人に知ラれんと思ひ、悪事を成ス時は人に知ラれじと思ふに依ツて、こノ心冥衆の心にかなはざる依ツて、所作の善事に感応なく、密に作ス所ノ悪事には罰有るなり」の経験から人はよいことをしても御利益はないって思うようになる。逆だ。

ゴミが落ちている、トイレが汚れている、窓がくもっている、部屋がちらかっている。目についても誰かがやってくれると思う。誰もやらないからルールが定められる。やるべきことに昇格する。「評価」の対象である。「見える」ようにみんなでいっしょにやることは善事にかわる。やがて人に知られたいと思うようになる。

見えないところでしたことが見えないところで報いられることもあり、見えないところでしたことが見えるところで報いられることもあり、見えるところでしたことが見えるところで報いられることもあり、見えるところでしたことが見えないところで報いられることもある。

記憶と記録に残らない。見えない。でも「やっている」人がいる。何をやっているかを自分のなかで描けるかどうかを問われている。