diary

寡人

Leave a comment

2011.07.19 雨風強し

Lotus

*RICOH GR DIGITAL II *28mm f/2.4

マーゴンは意思を持ってるの? 被害をもたらしている。だけど当初予想された進路じゃなかった。列島直撃はまぬがれそう。17,18日あたりの予想は九州から四国に上陸して近畿・東海・関東を縦断しそうだった。勢力から推測して「壊滅的なダメージか」と報道していた。20日の深夜、徳島へ上陸した後、北東へ右旋回して八丈島の方角へ向かおうとしている。その後の予想進路も「意思」を持ってるような、自然のわがままをみせつける。それでも被害は甚大。

邦楽から洋楽へ。いまは洋楽中心。The Beach Boysを何度もくり返して聴く。夏の日射しはCocktailのサントラと相性がよいと思うんですよ、やっぱり。Preston Smith Oh, I Love You Soを聴くと全裸で砂浜を走りたい。宮古島の。

第三十三候、鷹乃学習。そろそろ田草取。米作でいちばんつらい仕事だと聞く。今年は肉体的だけでなく精神的な不安もつきまとうかとも思う。

報道は苦心してる。汚染牛や汚染稲わらと報道していた。名称がかわっていく。いろんな立場の人からの「声」が現場へ届いてるのでしょう。「セシウム汚染: 肉牛・稲わら」とか書きはじめた。牛や稲に対して「汚染」を修飾語として使っていない(連体修飾語でしたっけ?)。配慮といえば聞こえはよい。報道する人たちのメタ認知が欠如している。自分たちの記事がどのような文脈のなかでどのように読まれるかを吟味しない。できない。速報性を重視しているから定型単語を反射的に使う。頭は鍛えられてない。科学を放棄した記事が読まれない本のように新聞社のウェブサイトに積み重ねられ、背表紙だけを見た人たちが表現につられて怒る。

稲わらや肉、あるいはその他の食物など「汚染」にまつわる報道ばかり。ため息の連続。加害者と被害者の二項対立。そこに政府の失策を重ねて批判するだけ。200km離れた東京で汚染された状況をヒステリックに報じていた。あのヒステリックな状況をふりかえれば、「まさか」や「夢にも思わなかった」という被害者(のように報じられる)コメントを鵜呑みしてよいかな。そんなふうに思う。震災で被災したひとたちの情報があとまわしにされている印象。とても悲しい。冷静に現状を分析して短期・中期・長期に切り分けて必要な物資や設備、資金の投下状況、これから不足するかもしれない物資の予測などを客観的に伝えてほしい。

“最強組織の法則―新時代のチームワークとは何か” ピーター・M. センゲ の「経験による学習のジレンマ」がおもしろい。

人間が最高の学習を得られるのは直接の経験からである。試行錯誤を繰り返し、歩くこと、自転車に乗ること、車の運転、ピアノの弾き方を学んでいく。われわれは行動し、その結果を観察し、修正を加えていく。しかし「行動からの学習」に効果があるのは、行動のフィードバックが迅速で明確な場合に限られている。複雑なシステムのなかで行動すると、その結果はすぐに出てこないし、明確でもない。時間的、空間的にかけ離れている場合も多い。これが「経験による学習のジレンマ」を引き起こすのである。経験から学習するのがベストなのだが、ひじょうに重大な決定の結果を、われわれは決して経験できないのだ。では、どうやって学習すればよいのか?

“最強組織の法則―新時代のチームワークとは何か” ピーター・M. センゲ P.235

ギブソニアンの「直接経験」と関係してきそう。読み直そう。経営者は痛感。「行動からの学習」の効果がある業務と「行動からの学習」の効果を実感できにくい領域。掃除や整理整頓はフィードバックが迅速だから学習効率は高い。課題は継続。ではコミュニケーション能力の向上はどっち? 後者?! コミュニケーション能力の向上って端的にいっても関連する要素が多すぎる。事象が複雑だ。よってフィードバックが遅くなる。結果が出ていたとしても「結果」と認識しにくい。結果が遅れて生まれる。最初に設定した「経験」と「結果」をリンクさせられず学習効果が薄くなる。

日記なのでこういった分野の記述はここまで。あとはEvernoteにまとめなくっちゃ。

正法眼蔵随聞記 三 三 唐の太宗の時

正法眼蔵随聞記 ちくま学芸文庫 P.160

「寡人仁あツて人に謗ゼられば愁と為すべからず。仁無クして人に褒らればこれヲ愁フべシ」と。なるほどです。自分に仁徳があって悪く言われるなら心配しなくよいけどその反対ならば心配せよ、というわけですね。ぼくはこういう警句を好む。逆説的っていうのかな、あるいは捻くれているというべきか。

「自分に仁徳がある」という評価は誰の評価だろうか。それが疑問だ。周りの評価だろうか。周りが「あなたは仁徳がある」と評価していれば、誰かが悪くいっても心配しなくてよいかな? でも、その評価はひょっとして後者の「褒めている」のかもしれない。

ぼくは徳の「評価基準」を問うた。無粋で邪推で外道な発想だけど気にせず問いたい。「徳である」とは誰がどのようにいかなる状態を指して「判断」するのか。

だからこの説話の最後でこう紹介されている。

徳の顕ハルルに三重あるべし。先ズは、その人、その道を修するなりと知らるルなり。次には、そノ道を慕ふ者出来る。後にはそノ道を同ジク学し同ジク行ずるなり。是れを道悳の顕ハるると云フなり。

大企業の創業者と伝道者の関係を思い出す。大企業の創業者にはイズムを慕う者が出てきて、その人が現場で伝道する。伝道者の話を聞き、さらにまたイズムを信奉する人たちが現れ、その円が広がっていく。

大学の教授と学生の関係。学生が大学教授を慕う。教授の性格や容姿を慕っている可能性はある(あるいは蓋然性が高い)。しかし、そういうふうに思い込んでしまうと、ある瞬間から教授は勘違いして「ハラスメント」を犯してしまう。学生が慕うのは教授本人ではない(レトリックですが)。教授が欲望する先にある「知性」を学生は欲望する。それを「欲望の欲望」と内田樹先生は書いた(参照 [Review]: おじさん的思考)。

大企業の創業者や大学の教授にだけ適用する構造じゃないと思う。自分にも問われている。

It\'s only fair to share...Tweet about this on Twitter
Twitter
Share on Tumblr
Tumblr
Pin on Pinterest
Pinterest
Share on Facebook
Facebook

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。