diary

外相

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2011.07.29 曇

ども、ややもすれば、うんこ味のカレーよりもカレー味のうんこを選んでしまいそうな”中の人”です。

第三十五候、土潤溽暑。緑が濃くなっていく。この間刈ったばかりと思っていた草木の背丈が伸びている。毎日通る道であっても気づかない。ゴーヤを買う。食べたら夏バテしないような錯覚をいっしょに買う。錯覚はレジをとおさなくてよいのでありがたい。自分で料理して思い違いすればよい。水にさらして塩もみ。アグー豚と厚揚げとパプリカ、玉葱と卵で炒める。ゴーヤを食べるたびに京都の沖縄料理のお店を思い出す。錯覚と想起がセットでお得感が増す。

電車のなかである人をみたとき、席をゆずりたくなる人とゆずりたくない人にわかれる。両者の差異はなんだろう。よく考えるテーマでもある。はじめてみる人だからその人を判断する基準はない。なのにフワっと腰が浮くか鉛を抱えたように動かない。それがぼくにとっての第一印象であるとしたら、ぼくは「何を」見て「印象」を抱いているのかメタな視点を電車のなかで再生する。

その再生は模造記憶かもしれない。現在感じた違和感の原因をさぐるために過去の記憶を再生する。原因に対して仮説を構築して再生する。主観的な再生は仮説とマッチするような原因を過去の記憶から探してしまう。あるいは「いまから思えば」と書き換える。過去の生ログは独立して存在するようでもあるし、”いま”なしでは存在できないようでもある。

39歳ぐらいであれば “東京ラブストーリー (1) (小学館文庫)” 柴門 ふみ を知っている確率が高い。そして読んでないのに読んだように語れる。当時の感想を過去として語れる。その語りはいままでの経験によって上書きされた現在の感想だ。過去の「あの時点」での感想じゃない。過去の感想はSubverisonみたいにバージョン管理できないと思う。

先日、“海がきこえる (徳間文庫)” 氷室 冴子 のアニメを放映していた。はじめたみた。既視感があった。言い回しや表現の手法がなぜか懐かしかった。高校生の頃、あんなふうにしゃべっていた(と思っているだけだろう)。せつなくなつかしい。もっとも大切だった人はどうしているだろうって思い出した。高知城が映れば、大阪城に置き換える。

たぶん柴門ふみさんや鎌田敏夫さん、その他の恋愛小説を高校・大学のときに読み、ドラマにもさくハマリしていたから、それらの記憶がごちゃごちゃになってる。小説やドラマで完成されたシーンを見て、「ああ、ぼくがあの人と望んでいたのはこんなふるまいだ」と感動して、自分の過去を「そのよう」にもういちど保存する。タイムスタンプが更新される。で、「ああなんだかみたなぁ」ってなったんだと思う。目の前のドラマを素直にみられない。なにかしら解釈してしまう。構造を抽出して過去のパターンを参照する。ギミックを探したり。現実の過去と比較したり。実記憶と模造記憶は人の言動に多大な影響を与える。そう痛感。

「なんとかなるさ」ってMISIAが “心ひとつ”でかいてます。うまいよなあ。ステキすぎる。

16:00前に出発。大阪へ。パソコン工房で1TBのHDDを購入。ファイルサーバーのHDDがS.M.A.R.T.でエラーログをはいたのではやめに取り換えるため。大阪駅の屋根の設計は風洞実験で事前に判明しなかったのかしら。雨がはいってくるなんて思いもよらなかったはにわかに信用できない。欧州の景観をイメージさせる前に転落防止のシステムを導入したら。見場に資金を投入するけど地味なシステムには資金をかけられない。その背景はなんだろう。

19:00からM先生のミーティング。お金をいただいている立場で申すと失礼な話だがミーティングはぼくをかえた。今回のミーティングも推論と解決に対して新たな視点を与えてくださった。推論を積み重ねて対策できそうな手段を選ぶことと確定した事実に対して対策を講じることは違う。あたりまえと承知していても議論していればいつしかごちゃまぜにする。ミーティングの書記をしながらそんなことを考えていた。

お金と言えば会計事務所でお世話になっていたとき、(先方が言うところの)「全部」か「大半」をみてきた(いまはそう思っていない)。「お金に対してきちんと向き合える人は続けられる。そうでない人は続けられない」と退職してからふりかえった。お金がぼくの弱点だと自己評価した。ぼくは向き合えなかった。よいわるいではなく感情的になってしまう。懐具合を知っているから請求の話をしにくかったし、無料でやったりしていた。いまから考えれば愚かな行為である。が、いまでもその感覚はひきづっている。相手からお金がないと言わせる前に自分から身を引くほうがよいとぼくは考える。そのあたりのさじ加減というか、引き方や接し方がぎこちない。

自分をふりかえって思う。「お金じゃないと言うけれどお金の話やお金にとらわれている」と。もう少しきつめに自分を評価したら「お金じゃないと言うときほどお金にこだわっている」な。正法眼蔵随聞記を読むようになってますますそう評価できる。こだわっていないふりをしてこだわる自分。自分を偽る。人は嘘をつく。一番はじめに誰に対して嘘をつくかといえば自分だ。その言葉の意味がようやくわかってきた。自分自身の感覚であって他人に適用して観察したら危険である。

人は自分のなかにあるものを他人のなかにもあると思いがちであり、自分のなかにないものは他人のなかにもないと思いたい。

正法眼蔵随聞記 三 八 真実内徳無うして人に貴びらるべからず

正法眼蔵随聞記 ちくま学芸文庫 P.182

「こノ国の人は真実の内徳をばさぐりえず、外相をもて人を貴ぶほどに」なんだ。表に見えるかたちを人はあがめる。その様子を見て、修行者も表をととのえようとする。身を捨て世間にそむく様子を見せる。違う。ほんとうに道を求める人は見分けがつかない。内が空だからだ。そして外は世の中の空気に同調している。

人は見かけによらないともいえるし、人は見かけによるともぼくには読める。どちらであっても外相に惑わされる。それほど「見える」という感覚はてごわい。

いまも見たから腹が立った。見なければ知らない。せめて連絡してほしいとぼくが期待していたから見てしまった。期待してはいけない。期待するということはまだ気にかけている。甘い自分に腹が立った。

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