仮性

2011.08.01 晴れ

ども、料理屋の素敵な女将から「日本人の男性の3人に2人は発生している症状やろ」と指摘された”中の人”です。ちなみに天花粉を10日間ほどぬった男性は子供を授かったそうです。

16:00すぎに京都へ。17:00からM先生と打ち合わせ。医院の経営やサイトについてご相談を承る。先生のご質問を伺い自分の考えを申し上げる。(ぼく自身が医院を経営していないから机上の空論であるけれど)M先生の医院をずっと観察してきたうえでの課題を提案申し上げた。

打ち合わせが終わりかけた頃、先生から昨日のエントリーについてご指摘を賜った。拙文をご覧になった先生は、「そんなふうなことを書くわけないけどそんなふうに読めるよ」とおっしゃった。「そんなふうに」は具体的な言及が挿入される。いまは割愛。

もっともなご指摘。嬉しかった。文章を書く不安。ぼくは「そんなふうに」感じていないし、「そんなふう」なことを伝えようとしていない。書き手と読み手は信任と審判の場に立つ。書き終えた文章はもう「他者」だと思う。数年前に書いた自分の文章を読んでそう感じる。読み手の読み方を完璧にコントロールできない。他者となった文章が伝播する過程を制御できない。

伝える量と伝わる量は反比例する。ぼくの前提である。その前提で書く。だとしたら丁寧に書かなければならないはず。なのに「自分が理解している事柄」を省く。頭のなかで思い浮かべる事柄は頭の中で消化されている。無意識のうちに。消化されて自分だけが理解した書かれない事柄は行間に残される。

自分が書き終えた文章は「他者」だと申し上げた尻からくつがえすようだが、自分の文章を読み返すと、「自分が知っている部分」は書かれていない。伝えなければならない文章が欠落していることに「気づかない」。

誰も指摘してくれない不安を抱える。だから先生のご指摘はとても嬉しい。先生はきがねなくおっしゃってくださる。さっそく先生のPCを拝借してその場でブログを書き換えた。

18:00すぎに打ち合わせ終了。夕食をご相伴する。久しぶりでうれしかった。浮き足立つ。週末は体調をベストへ調整した。口内炎はどうしようもなかった。幸いひどくなかった。神様、ありがとう。

四半世紀続く料理屋でアナログの大将とステキな女将のコンビをカウンター越しにながめる。二度目の席。女将は覚えてくださっていた。とても心地よい。先生とゆったりお酒を飲み、ゆっくり食事をいただき、こむずかしい話もなし。身の回りのささやかな場面の交換。

久しぶりによく飲んだ。体調を整えたおかげで酔いもちょうどよい。

料理はすべて美味い。美味いと書くまでもない。こういうお店で美味いというのは失礼ではってとまどう。失礼でなかったとしたら自分の語彙のまずしさがはずかしい。

シンプル。目の前のフライパンでつくられるにらの卵とじをみていたらぼくにもできそうだ。そしてできそうだと感じた者は挑戦する。誰もその味と食感へ到達できない。絶対に。高菜ご飯もそう。みていたらつくれそう。何度も何度も書いてきたけどシンプルは単純や簡素簡単ではない。完璧な調和だ。必要ない要素はそぎ落とされお皿の上にのせられた料理は「最小」と「最高」が同時に成立する。

「身の回りのささやかなことがら」は綺麗事ばかりを肯定的に語り合う行為ではない。暗澹たる表情で机をどんどんたたいたりしない。「漢語」や「術語」や「カタカナ英語」を織り交ぜて深遠を掘るでもない。そして「語り」に酔わない。酔うのは美酒であり佳肴である。

笑ってる。女将と大将と先生をみて幸せを感じる。単語の上滑りした「幸せ」ではない。皮膚感覚の幸せ。

先生とぼくと大将と女将だけになったお店は、ぼくの身の下でもおおいに盛り上がった。まさに身の回りのお話。素敵な女将である。上品な身の下話。話のセンス、笑わせるセンス。本気か冗談なのか「外相」ではひよっこのぼくは見分けられない。芸だなあ。アートだ。

今日は正法眼蔵随聞記はなし。ひとつのエントリーにひとりの先生のことしか書かない。このブログを書くぼくだけのぜいたくであり、ぼくが伝えたい喜び。