Lake Biwa

知者

2011.08.03 晴れ

2週間ほど曇りがちな天気が続いて、ようやく快晴。雲は入道雲。雨はしとしとではなくばしゃばしゃ。粒が大きい。出かけているときに夕立が降ったらまっさきに洗濯物が気にかかる。台風の季節になりゲリラ豪雨が気になりはじめる。

大好きなトマトが近所のイオンで色鮮やかに並ぶ、は定型句。実際はそうじゃないような。イオンのトマトは色鮮やかではない。生産者の方には申し訳ないけれど。プロモーションだから色につやがない(主観なので堪忍してください、そんなわけない! 色つやあると言われたら、そうですねって答えます)。前のめり、前へ。食べ頃よりもさきどり。食べ頃よりも大量仕入れ。「プロ」が大手の流通の根幹をささえている。先日、朝市でプチトマトを買った。15個ぐらいはいって150円。たべてびっくり。皮は薄く柔らかくものすごく甘い。皮はやわらかいけどべちゃべちゃしていない。噛んだら皮がすぅっととけてなくなるような感じ。そのプチトマトを食べ終えたので今度はイオンで買った。皮はあつくかたく甘みはすくない。しょうがない。朝市のプチトマトの食感がよい。食感は味覚に影響を与えるのかしら。 道の駅や路上の朝市などの直販はいまや一大市場を形成している。「野菜」を教えてくれる。「”いま”食べなければならない野菜」の旨味。甘さ。繊維の質とか。なんて書くけど自分の味覚はそこまでするどくないしわかっていないから、これも言葉で遊んでいるんだろうなぁと自分を批判する。

日本人が一年間でトマトを消費する量は一人当たり9kgとのこと。もっとも多い国はエジプトで97kg。トマトは生活習慣病の予防や美肌に効果があるといわれる。たしかなのでしょう。ではエジプト人は……と書けば野暮だし、”それ”ばかり食べていてもだ。テレビはそういうデータをかきあつめてデフォルメする。それを鵜呑みする人がいるからビジネスは成立する。「公衆衛生」や「医療技術」や「地域」、そして「自分が住んでいる場所の(人工的な)環境」などの複合的な要素があらためてうかびあがる。

稲わらが起きて、肉牛に及び、キノコのエントリーを読み、次はコメかと思う。震災直後の水と同じく、昨年収穫した米が買いだめされるのかと。もうはじまっているかもしれないね。新米が収穫されれば昨年の米には値下げの値札がはられる。3.11前なら誰も見向きもしないかった(家計をやりくりする人だけがみていた)。今年は我先に買われたりして。闇で取引されるから盗まれないよう注意を払う。報道されている事柄が「おこった」と思いがちだけど、「おこるまえ」もあり、ネットでは「これが日本か」と絶句する家畜のシーンがアルピニストによってアップされ、視点をかえれば自然の摂理は正常に機能しており、家畜が死ねば分解者があらわれ分解していくさまは自然なんだと教えられ、すさまじい光景ですが、映画かドラマかはだしのゲンぐらいでしかお目にかかれないからすさまじいとひるんでしまう。

昨日も失敗しない焼きそばをつくろうと思って、きょうの料理ビギナーズへアクセスしたらアーカイブがない。なるほど、そういうことか。アーカイブは本ですよと。だから買ってね。ごもっとも。悪態をつきながら記憶を頼りに失敗しない焼きそばをつくる。失敗した。やっぱり記憶を頼りにしちゃいかん。何度もつくって身体を頼りにしないと。分量や行程を思い出してるようではいけませんな。

そろそろガジュマルを鉢替えしないとなぁ。土の上に根がでてきた。もう小さいのでしょう。たぶん。勝手な推測ですが。そういう姿をみるともっと大きくなりたいのに苦しいって訴えられているようでつらい。ついつい「また今度ね」とガジュマルに言ってしまうが、「また今度ね」はないんだ。朝に道を聞かば、夕に死すとも可なりというは大仰だけど、そこからはじめないと変化はない。未来を前提にした成長よりも今の変化を味わえる感性を磨きたい。

正法眼蔵随聞記 三 九 学道の人、世間の人に知者もの知りとしられては無用なり

正法眼蔵随聞記 ちくま学芸文庫 P.185

「学道の人、世間の人に、知者もの知りと<知>られては無用なり」である。「知らない」と答えたら人はみっともないと思うだろう。愚か者と思われるつらさが自分のなかでめばえる。そうなれば、広く教典をよみはじめてしまう。「知る」ことが目的になり、やがて世間世俗のことまで知ろうとする。

広く学べば学ぶほど道理の理解は遠ざかるのかも。そんな感じだ。本を読む。その時、ぼくは文章の技術や表現に影響を受けて、書き手の思考をうまいかまずいで判断する。Aという人が書いた本を読んで、「自分の感覚」と一致したら「A’」という意見をつくって自分の意見にして、今度はBが書いた本を読んで「A’と違うからまずい」と考える。ひどい話だ。

知れば知るほどわからなくなる、という。よい意味、プラスのニュアンスで使われる。ぼくも使っていた。うたがいはじめた。そうかな?