光陰

2011.08.17 晴れときどき雨

プリュスさんのタルトケーキ

ども、禿なので白髪はないですが白い鼻毛がある”中の人”です。

早朝から夕方まで緊急車両のサイレンを何度も聞いた一日だった。朝から卵焼きをつくる。奥深い。卵焼きをつくれるようになってそう感じる。つくっている間、ほんとに何も考えていない自分を実感する。目の前の卵が化学反応していく様子だけを見つめている。

奥深いと感じる度に、F先生とご一緒したイタリア料理店のご主人が語ってくれたペペロンチーノのお話を思い出す。ペペロンチーノを同業者と語ると激論がかわされる。シンプルがそなえる力。と書きつつ、こみいった料理をつくられないくせにもうシンプルなものの奥深さを感じる自分は嘘くさいなぁと自嘲気味。

毎日卵焼きをつくっている人の動作を想像する。卵を割って焼き終えるまでの動作は、卵焼きに欠かせない動作である。寸分の狂いもないなめらかな動き。その動きを身につけられてから思い巡らせるであろう味付けについて私は悩む。なめらかな動作を身につけられていないのに味付けやおもてなしや合わせものを思い浮かべる。基本をおろそかにして応用へあこがれる。

同じ仕事を10年も続けると課題を解決するためのアプローチは洗練される。10年の間に蓄積された知識はネットワークを形成して関連づけられている。関連づけられた知識群はネットワークの部分である。同時に群のひとつひとつは全体として機能する。全体と全体がリンクして「全体」が構造化される。ネットワークは複雑化され構造化され、全体のリンクの強度が増す。

複雑化され構造化されリンク強度の増したネットワークから課題を解決する方略を短時間で探索する。それが10年(あるいは20年、30年)続けてきた人の「直感」だと考える。

卵焼きに欠かせない動作は単調だ(と勝手に判断してしまう)。単調だから苦しい。飽きる。それよりも味付けに使う材料や配分、おもてなしの方法、あわせものを考えるほうが変化があっておもしろい。さらに奥深さを研究して言葉で表現できればおもしろい。誘惑は陥穽を用意して私を待ち構えている。

直感を備えられるようなった人は後から続く者にも直感が備わっていてほしいと願う。10年かけて構築した知識群のネットワークが1年や2年で形成されないと理解している。理解していても卵焼きに必須の動作を教えずに味付けを説きたくなる。説く自分に酔う。単調は指導者と学習者の双方から邪魔者扱いされる。

「直感」はトップダウンとボトムダウンの両極から鍛えられる。卵焼きという全体の課題に解決するための道筋を計画して、課題を下位レベルの問題(火力、時間、道具の使い方など)に分割する。トップダウンは全体を鳥瞰する。分割された複数の問題を解決して回答を下から積み上げていく。ボトムアップはひとつひとつの問題を解決する。解決する過程は、自分の内側にある知識と外側のどこかにある資源をひとつにあわせて適切に利用する能力を求める。

正法眼蔵随聞記 三 十四 学人は必ずしも死ぬべき事を思ふべし

正法眼蔵随聞記 ちくま学芸文庫 P.207

4行。人が死ぬという道理を言わなくてもわかっているはずなのに4行で説く。人が死ぬという道理を死ぬという言葉で考えてしまう。たぶんそれは愚かな行為なんだと思う。そんな道理を言葉で考える「時間」すらあっというまに過ぎ去っていく。

「しばらく先づ光陰を徒ラにすぐさじと思うて、無用の事をなして徒ラに時をすぐさで、詮ある事をなして時をすぐすべきなり」の無用とはなんだろう? 自分にとって有用であっても他者には無用、そんな無用ではないような感じがする。無用と詮ある事の仕分けはいらないと思う。「関係」を持たなくなったらしなければならないことはほんのわずかなのかもしれない。「関係」は事を生み、事をつなげる。関係に無をつける行為は無用なのかな。

無用、「無」は難しい。