diary

貪惜

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2011.08.18 曇に近い晴れ

8月18日は忘れられない日。忘れてはいけない日。かれこれ15年ほど会っていない。20年前にタイムスリップ。そこでとまったままの容姿といまの私が話す。当時の音楽をYouTubeから探す。CDをひっくりかえす。音楽と記憶は密接にかかわりあっているつかの間。

身体は摂理に逆らわない。腰や腹まわりのお肉が、万有引力を証明中。お遊びの腹筋・背筋では筋肉に変えられ素、下へ向かう速度を遅らせるぐらい。定刻に到着するはずの列車が1分遅れたぐらい。顎の蝶番から顎の下にかけてのあぎ肉もしかり。頬が痩けると顎の肉がなくなるは同義じゃない。ただ痩せただけの顔と運動で筋肉が鍛えられている顔は異なる。ただ痩せた脚と運動している脚は…..、ただ痩せた腹と…..以下、身体の各部位にあてはめられるので略。

冷蔵庫とインターネットは似ている。どちらも貯蔵できて、なくなると不便。冷蔵庫は食材を、インターネットは情報を貯蔵する。どちらにも生きた「食材・情報」と死んだ「食材・情報」を保存する。違いは容量。養老孟司先生は「現代人は情報は変わると思っているが情報は変わらない」と同工異曲で語っている。そんなあたりまえのことを思い違いさせるほどインターネットは便利になった。

安く売っているから買った食材を冷凍して保存する。生活の知恵と褒められる。(揚げ足をとれば)知恵じゃないよね。知恵は、お金と等価交換される行為に対して使われる単語じゃないと思う。それはさておき、安く手に入った食材にウキウキ、冷蔵庫へしまう。数日後、何を買ったか忘れている。これもあと数十年ぐらいの出来事かな。スマートハウスが実現すれば「忘れる」という概念はなくなる。冷蔵庫のAIが中身を監視して在庫の状況をディスプレイに表示してくれる。もう少し進めば自動発注か予約発注してくれるようになるでしょう。

安く買った食材を保存して嬉しい。かわりに鮮度を失う。代償。食べごろをすぎた食材を料理して食べる。味覚は育たない(育てなくてもよい)。あこがれる生活は冷蔵庫と電子レンジのないキッチン。冷蔵庫は無理かなぁ。電子レンジはいつか実現したい。

生きた食材を料理して食べる、死んだ食材を料理して食べる。ここでの生死は物質的な生死ではなくレトリックであり、冷蔵庫は死んだ食材を生きた食材だと錯覚させてくれる。旬や食べごろ、新鮮、色鮮やかは単語の世界へ押しやられ、現実の身体から遠ざかる。

情報は変わらないから生きた情報も死んだ情報もない。なのに情報の鮮度が気になる。気にしている割に死んだ情報を生きてるって思い、インターネットから積極的に仕入れる。ふりかえれば死んだ情報を大量に仕入れて頭の中に保存したつもりでも、まったく使っていない。おまけに断片化されている。役に立たない。死んだ情報を仕入れるより他者の感情をおしはかるほうが生きた情報を仕入れられる。

難解な単語がつらなった文章を読む。高度な思考が記述した内容が生きた情報かもしれない。かもしれないけれど、どこか歴史の年表を覚えるのと似ている。いい国つくろう鎌倉幕府とか(ほんとに1192年につくられたのか?)。年表を覚えているのに成立の背景や過程を知らない。

高度な思考を読んで難解な単語をおぼえる。おぼえた単語群はばらばらにちらばっている。頭の中の単語の総量は増える。増えても他者と共生していく能力は向上していない。ばらばらにちらばった単語群をデフラグしてひとつのかたまりにまとめる。体系化。体系化されたかたまりと別のかたまりを構造化する。体系化と構造化の作業は後回しになるからやらない。なぜ?

体系化と構造化は頭のなかだけで完了しない。生身を動かして感情にふれてまとめられる。体系化と構造化の作業によってつくられた「単語群からなる文脈」が生きた情報なんだと思う。生活に使える視点であり問題を設定できる能力。

(´-`).。oO (非論理的な記述はいくらでも書けるからきりがない、ここでやめとこ)

正法眼蔵随聞記 三 十五 衲子の行履旧損の衲子等

正法眼蔵随聞記 ちくま学芸文庫 P.208

古い袈裟をつぎはぎしながら捨てずに使っていると物を惜しんでいるように見える。古いのを捨ててあるにまかせて使っていると新しい物をむさぼり惜しんでいる。どっちやねん! とツッコミたくなるのが正法眼蔵随聞記。両極があり両極はないんだなぁって思う。

貪は万物を必要以上に求める行為を意味する。三毒のひとつ。万物であるから「我」も含まれると私は受けとめている。我の視点に拘泥する。我からみた事象を真実に置き換えて語る。我からみた事象を我の感情で語る。我からみた事象を他者のためと置き換えて語る。いずれも我。私は我にひきよせられる。

私は桜の木を見る。否、桜の木が私を見る。逆転した質感がからだをつつみこんでくれたとき、三井寺から望む風景に現在の建物はだんだん消えていった。時をさかのぼった幻視は鉄筋を消した。琵琶湖が際立つ。未来の建物を想像してつくりだせなかった。不思議。現代の建物を消し去ることしかできなかった。なぜかな?

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