孝順

2011.08.19 雨のち曇

第三十九候、蒙霧升降。残暑は厳しいけれど朝夕はひんやりした空気が心地よく感じられる(らしい)。雨の日、比叡山は白い衣をまとう。幻想的。鯒の頭は嫁に食わせよ、は気づかいか虐めか。今年の夏は玉蜀黍をあまりたべていない。とれたての玉蜀黍をたべてみたい。収穫して一日たてば甘さは半減するらしい。夏休み、母方の祖母の家に泊まると、玉蜀黍とベーコンを塩と胡椒でいためて目玉焼きにそえられた朝食をつくってくれた。毎年、それが楽しみで楽しみで。泊まった日の夜はわくわくしながら寝た。

先日、焼きそばに失敗したって書いたらM先生からメールが届いた。件名は「おいしい焼きそば」 (^_^)

読んで「コレだ!」って思って、メールのレシピにしたがってゴーヤと鶏肉のミンチで焼きそばをつくった。結果は成功。今年はゴーヤをよくたべる。麺がほぐれていること。麺を事前にほぐしておく一手間と食材をいためすぎない。それで食感はよくなる。あとは味付け。ありがとうございます、M先生 m(_ _)m

一日をふりかえってみよう。笑っている? 笑顔と笑いはちがうと思う。笑顔をしている? じゃなくて笑っている? 笑わせている? それも相手の話の調子にあわせてる笑いじゃない。笑顔を強いるような笑いでもない。含み笑いや馬鹿笑いでもない。自分自身に対する素直な笑い。

ミーティングに出席している医院のスタッフにYさんがいる。Yさんの笑いは場をなごませる。場を陰から陽へかえる。笑わない人よりも笑っている人のもとに人はひきよせられる。笑っている人のもとに人はあつまる。笑っている人にむかって人はしゃべりたくなる。

相手の弱点や短所を気にしている人は笑えない。笑わせられない。勝ちと負けをあてはめちゃいけないフィールドに勝ち負けをはめこんで相手を見る人は笑わない。相手を見さだめる基準が固まってしまった人の笑顔はこわばっている。ずっとずっとむかし、武田鉄矢さんが「毎日、鏡にむかって笑いなさい」としゃべっていた。そのときはくだらないなぁって思った。いまはなんとなくわかる。なんとなく。

今春安明さんは、「私も熟達者といわれると困りますが、結局、数掛ける(数をこなす)ことがやっぱり大事ですね」とおっしゃる(“人が学ぶということ―認知学習論からの視点” 今井 むつみ, 野島 久雄 P.176)。島朗さんは「将棋の分野では直接教わることはなくて、模倣する」とおっしゃっている(同 P.181)。毎日、同じことを丹念にくりかえす。鏡にむかって笑う。「笑う」という下位技能が鍛えられて、その場その場の最適な「笑い」を判断できて、意識的に「笑い」を考えないで最適な行動を選べようになる。

16:00前に出発。大阪駅で途中下車して、書店で“構造主義 (文庫クセジュ 468)” ジャン・ピアジェ , “樅ノ木は残った (上) (新潮文庫)” 山本 周五郎, (中), (下), “死ぬことと見つけたり〈上〉 (新潮文庫)” 隆 慶一郎, 〈下〉を購入。死ぬことは再購入。また読んでみたくなったので。

19:00からM先生のミーティングに参加。否定的な意見を述べる役を演じた。危機感から演じた。私が勝手に抱いた危機感であって、見当違いであるから失敗したなぁって反省。危機を先取りするのはよろしくない。いま目の前におこっているできごとをきちんと吟味しないと。ミーティング終了後、もうひとりの外部参加者であるM岡さんとすこし話す。M岡さんの観察を伺う。おまかせしてよいなあ。すごくできる人だ。

正法眼蔵随聞記 三 十六 父母の報恩等の事

正法眼蔵随聞記 ちくま学芸文庫 P.210

「孝順は尤も用フル所なり。但し、そノ孝順に在家出家之別在り」とおっしゃる。在家の孝順と出家の孝順の違いを説く。十六を読んで「出家」を垣間見られたような気がした。最後の一文、宋国の道場の僧達がそれぞの父母の命日をむかえたときの「かまえ」を紹介しているくだりは圧巻だった。