diary

鈍根

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2011.08.22 曇時々雨

長等商店街の路地裏

ども、ホーホ・ホ(ッ)ホー、ホーホ・ホ(ッ)ホーの鳴き声はフクロウだと思っていた”中の人”です。10歳のときです。

肉じゃがを食べなくなってもっぱら鶏じゃがをつくる。この間、焼肉を食べに行ったがダメだった。牛がNGになって豚と鶏を食べられる己のメンタリティがさっぱり理解できない。鶏のむね肉とジャガイモとニンジン、タマネギといっしょにコトコトする。味付けは薄味。むね肉でも白い物質が出汁の表面をプカプカ。ビックリ。

2年前、表のブログに同じことを知る人たちはもはやお互いに最良の友ではないを記した。Ralph Waldo Emersonの言葉。気が置けない仲間といっしょにいるときは和む。同じような文脈を持っている人があつまれば、会話のノイズは少ない。何を言ったかよりも誰が言ったかを気にしていればよいからやすらぐ。

背景が異なる人が集まったら心がざわざわする。文脈をすりあわせなければならないから。私にはノイズに聞こえる単語や表現が増える。今まで育ててきた知識のデータベースを壊されたくない。己を守るために防壁を築く。

多彩なテイストが私のデータベースに入力する。私は新しいデータを保存しない。耳を傾けてもその場に残してくる。残すから消化しない。ニンジンだけを丁寧にとりのぞいて食べ残すように。ニンジンは目に見える。言葉は見えないから食べたふりができる。

異なる文脈の人と接触する。違和感をもつ。その場では何も言わない。同じ背景の人が集まったとき、その言動をまな板の上にのせる。ニンジンをこっそり捨てる。誰も見ていない。知るはずがない。幻想と確信。

同じことを知る人たちが集まっている状態を混じっているとはいわない。異なる文脈がぶつかりあい複雑な形をつくっていく。それが混じっていると思う。混じっているなかから居場所を探す。複雑に入り混じった場は混沌なんだけど、混沌が姿形を変えた私を私に引き合わせる。

知識と情報を蓄積しても混じり合えない。知らない、理解できない、わからないことを認めて受け入れられたときに混じり合える。異質の集まりが心地よくなる。ひょっとして何も考えていない自分と紙一重かもしれないって思ったりも。

正法眼蔵随聞記 三 十七 人の鈍根と云ふは、志の至らざる時の事なり

正法眼蔵随聞記 ちくま学芸文庫

大けがをするか命にかかわるような出来事が突発したときに人は分別と知恵をはたらかせる。分別と知恵のはたらきは、生まれつき鋭い人も鈍い人も少しの差もない。物を思い、意味を考えめぐらす。

ラジカルな教え。「中々、世智弁聡なるよりも、鈍根なるやうにて切なる志を出す人、速ヤカに悟リを得ルなり」とある。ひたむできあること。ひたむきを支えるのは、「たった今だけある」という気持ち。

はぁ、書いている自分が「今しかないと思って」いないので凹。

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