一食

2011.08.25 晴れ

ども、麻婆豆腐は飲み物ならぬ、シュークリームは飲み物の”中の人”です。

残暑。油断したら体重が増加。56.6kg。ひぇ。好きなものを好きな時に食べる。それもよいではないか、が、私はやらない、ってダブルスタンダードかしら。 体力が低下するし反射が鈍くなる。体はかたくなる。手足の動きがなめらかでなくなってくる。どれもしょうがない。気にしない。気にしているのは感度。からだがゆっくり変化していく様に気づけない。あぁ、とむくれる。

そして、目に見える変化を自覚したとき、不安をかかえる。ならばはじめから不安を招くスタイルを選ばなければよいのに、と自分を責める。責めると言っても甘いから、また明日から不安を招くライフスタイルを続ける。

自責と口にする、書く。文字か音声は、自責したと思い込ませる。目標を口にしたら半分以上は達成していると錯覚するから、実際は達成できない確率が高くなる、という心理学テストを証明しているかのよう。

計画書を作成して一冊にまとめあげられたときの充実感や達成感は、ひとしく危機を含んでいる。計画書を作成する過程でくり返される議論は、高揚感につつまれる。達成が見える。体重が56.6kgになったから「明日からダイエット作戦」を実行しようと宣言したら体重は増加する。作戦の計画を頭に思い巡らせながら、スイーツや菓子や高カロリー食品を私はパクパク。

やるべきことが明確だから、あとはどのように実現すればだけなのに実行できない。自分の仕事をふりかえる。なぜだろう。逃げている(とあたかも正確な自己分析をしているように自分を装う)。

以前、書いたかもしれないけれど、「やる気」という。仕事に「気」はないと思う。「やる」か「しない」だよって。にもかからず、「やる気」と私は口にする。平然と。

やる気があっても仕事ぶりは思わしい結果が得られない。やる気がなくても精密な仕事ぶりを発揮する。他者は後者を評価し、私は前者を評価してほしい。

どうすれば単語の呪縛から私を解放できるか?

現代の一日の新聞量は17世紀の人が一生で得られる情報量に匹敵するという。テンプレートになっているかもしれないので、文言をかえて至る所で目にできる。どこまでほんとうか知らないけれど、間違いなく情報量は増えている。Googleの一日に処理する情報量は一日に20ペタバイトらしい。なんだ? ペタバイトって単位は?

単語群から構成された文章を読んだら私はそれについて考えたように思う。単語が意識をひきよせる。単語を口にしたらやったと思い込む。思考は進化からの贈り物。その贈り物を粗末にあつかっている。

正法眼蔵随聞記 三 十九 近代の僧侶

正法眼蔵随聞記 ちくま学芸文庫 P.220

「況ンや仏法は、事々皆世俗に違背せるなり。俗は髪をかざる、僧は髪をそる、俗は多く食す、僧は一食するすら、皆そむけり」である。

先人の教えは今の世の中にあわないから、世の中のほうへ従う。仏法にかぎらずあると思う。背く前からそう断言する。背いてからわかることがあるのだろうか。読み続けてきた過去の教えにそって解釈する。世俗から背くとは、捨て鉢になったり、すれたり、世をはかなむことではないと思う。だとしたら、世俗に背くとは、と考える前に背いてみなければ、わからない。

言葉でしか考えられないとも思うし、言葉で考え尽くしてないとも思う。はたまた言葉で考えられない尽くせない表現できない「なにか」があってもおかしくないと思う。