衰微

2011.08.31 曇

タラスが列島を直撃するかも。近畿では09/03か。ゆっくりやってきている。雨が長時間降りそうだなあ。じらしやがる。マーゴンの神ターンよ、再び。

左側頭部から後頭部の痛みがやまない。へんな感じ。今までの感触と違うのでやや懸念。左肩の痛みはおさまらず。キンキンカンカン。

ライブハウスで男が逮捕された。詳細を知らない。なぜ? に関心はない。どこまでせまっても理解できない。受けとめて方が変わった。はじめてライブハウスへ行ったとき、正直、こわかった。入口と出口が極端にすくない密閉された空間は苦手。

そういう空間へ踏み入れるとき、入口と出口、避難経路を確認する。もしパニックが起こったら最適ルートの脱出をシミュレーションしてみる。結局、わからない。起こってみなければわからないと思い、起こらなかったことに胸をなでおろす。

ニュースを読んで、いままで行ったライブハウスがあざやかに脳裏で再生される。肌がざわめく。紙一重の善意で成り立っている。傘をもった人が、自分の顔を突き刺す確率はゼロではない。被害妄想へリーチしていないけれど、雨の日はきらいだし傘はこわくてしょうがない。

バランスがよい状態って、端から見たらあぶなっかしいプレートの上でゆらゆらしている。プレートが動いたらバランスは崩れる。崩れたら立て直す。ひとりで立て直さなくてよい。ひとりではない。

ひとりで鏡を見る。鏡に映る自分は誰だ。他者かな。どうなんだろう。他者の鏡が私を映す。他者が映し出す「私」を見ている人は、ひとりではない。他人はちがってあたまりまえ。他者へそっと近づき、共感をたぐりよせる。そのプロセスは楽しいときもあれば苦しい。そんな人はひとりじゃない。誰かが手をさしのべる。

他者が映し出す「私」を見ていない、あるいは見ようとしない人は、ひとりだ。「私」をうまく映し出してくれない鏡を割ろうとしたり、鏡を無視する。そんな人は孤独じゃなくて孤立。孤立に耐えられない。他人へ我の現状をあれこれつたえる。「私」をうまく映してくれる鏡にだけ顔をむける。

映し出された私は、かわらない。ずっと変わらない。孤立にさしだされた鏡は、くもっている。他者には何も見えない。私にだけは美しく映る。美意識、自己意識が高い我にだけ映し出される幻想の私。

16:00すぎにアップルストア心斎橋へ。MacBook Late 2006のファンの修理が完了したので引き取りに行った。先週の金曜日、ファンから異音が聞こえるので、ジーニアスバーで相談した。

その際、自分の違和感を話した。今年の7月、キートップが無償交換の対象だから交換してもらった。その交換からかえってきてから異音が聞こえるようになった、と伝えた。クレームのつもりじゃなくてしゃべったつもり。

スタッフの方はどう受けとめられたかわからない。クレームと受けとめられたかもしれない。6,000円ほどで交換してもらえるとブログで読んだので相談に参った旨を淡々と話した。結局、ファンは無償交換になった。

20:00からM先生とMさんと3人で食事をしながら打ち合わせ。3時間ほどM先生のお話を伺う。Mさんはたくみに合いの手をいれながら話を聴いていらっしゃる。M先生とMさんのやりとりを拝見しながらお二人の信頼関係を確認した。よかった。

正法眼蔵随聞記 二十の(二) 我れ大栄天童禅院に居せし時

正法眼蔵随聞記 ちくま学芸文庫

修行していたときは、夜十一時まで坐禅して明け方は午前二時半、三時から起きて坐禅。それを一夜もかかさない、とおっしゃる。もう根性論を通り抜けたお話。周りは、身体をこわすから坐禅の時間を短くしたいといっても、それは間違っているの一言。

ひたすら坐禅しているほうが身体をこわさないともある。時間や配分やあれこれ余計なことを考えて坐禅をするほうが身体をこわすとも読みとれる。

ひとつのことを徹底的にやる。そんな経験はない。経験はないから何も感じない。明日から私もそうするか、ふーんで読み流すか。私は読み流す。言葉であれこれ思い巡らすこともしない。