得道

2011.09.02 雨

第四十二候、禾乃登。刈り入れを間近にひかえたいま、タラスがやってきた。1本の穂に実る200ほどの米粒が引き裂かれないよう祈る。農家の人々はコントロールできないものたちと向き合っていらっしゃる。

鰯。1980年代の真鰯の漁獲高は400万トン以上。2005年は3万トンを下回る。高級魚といわれそうになってきたけれど近年ふたたび増え始めているとか。

難波に鰯の専門店があり(いまもあるかな?)、20代のころ、鰯の造りをあてに冷酒をやるのが好きだった。相手の女性が青魚と冷酒が飲めたのでよかった。造りにさばいてもらったあと、残りは天ぷらにしてもらう。冷酒の酒器はポケットカラフェ。

夏の実から奈須比、茄子。色褪せた茄子の味は? ゆえにボケ茄子とか。焼いた茄子にかつおをぱっと。田楽もよいな。香ばしい匂いで鼻腔がひくひくする。焼き茄子とビールの仲良しだし、茄子の漬物をあてにハイボールもよし。

F先生から拝借した“危機の宰相 (文春文庫)” のあとがきで沢木耕太郎先生が書いている。

しかし、私は「書くこと」の前にまず「生きること」があるという書き手の道を選んだ。間違いなく『危機の宰相』が岐路だった。『一瞬の夏』の方に進むか、『危機の宰相』の側に向かうか。私は選ぶという意識もないままに『一瞬の夏』の方向を選んでいたのだ。P.315

「脳科学者だからどうせ脳のことを話すんだろって思われてんだよな」「脳の活性化なんてどうでもいいんだよ!」って茂木健一郎先生がラジオでしゃべっていた。脳科学者の前に、『茂木健一郎』って生身の人間があるんだって。

仕事の属性を取り払う。固有名詞が残される。私ならウェブサイトの制作者、ちょっとした広告物の制作者、ミーティングへ出席する助言者、を取っ払う。ひとりの生身を机の上にゴロリと置きたい。

属性に囚われる。目と耳は、「相手が何をしている人か?」に引き寄せられる。目を閉じる。声にだけ耳を傾ける。声そのものがふくむ情報。

先日、読了した“樅ノ木は残った (上) (新潮文庫)” 山本 周五郎 にも似たようなことが書いてある。「武士」という立場は、生き方やふるまい方、考え方を己に強いる。武士は「武士」へ自分を押し込める。固有名詞、己ひとりそのものが描く「生きること」の苦悩。武士であることのまえに「生きること」があるという武士の道を選びたい。かなわない願い。

自分自身に対してワガママなのと、他者に対してワガママは、違うと思う。他者に対してワガママを見せつけられて疲れる。等しく私も他者にワガママを見せつけ疲れさせているって気づいて陰鬱。

08.31(水)はM先生とMさんと打ち合わせ。09/01(木)はF先生と打ち合わせ。3日目の大阪遠征。タラスが近づいてくるなか16:00前に列車に乗る。走らせるんだって妙なところで感心。自然の猛威に慣れている。

NYならすでに列車をとめているかもしれない。はやめに勧告をだす。未然に防ぐ意識が強いから? それとも訴訟を恐れてる?

19:00からM先生のミーティング。最近の私はしゃべりすぎ。うんちくも増えた。よくない傾向だ。自己分析は焦る。焦ると饒舌になりうんちくが増える。一期一会や一回性からくる焦りじゃない。そんな質感の焦りじゃなく、自己防衛本能の焦り。この焦りの克服が課題。胆力。

21:15京都着。風は強い。帰りたくない。ボウモアのストレートを注文してお水をいっしょにもらう。自分で加水。

正法眼蔵随聞記 三 二十一 得道の事は、心をもて得るか

正法眼蔵随聞記 ちくま学芸文庫 P.232

「また云ク、得道の事は心をもて得るか、身を以テ得るか」と訊ねられる。おもしろいな。心と体。どちらで得るのかと。

心と体。一つとも言うし、二つとも言う。二つはオカルトなり、と思うけど、私は。案外、オカルトライフを送っていてもおかしくない。言ってることとやってることは、正反対ってあるから。

他人を棚にあげてオレにむかってしゃべった内容と目の前のふるまいが、どっからどう検討しても腑に落ちなかったり。

オレも同じ。他人に足枷を渡すのに、自分への手枷足枷を忌み嫌う。茂木先生がラジオで「オレ、言ってるだけだもん」ってしゃべったとき、「あっ!」って思った。自己認識。それが自分の出発点だって。

自分が見えてないんだよ。見ようとしたら、晩年に精神が崩壊した(といわれる)人の「各人にとってはじぶん自身がもっとも遠い者」が立ち現れる。そんなのおっかけたらそうなるんだ。

だから、心であれこれ考えているよりも、念慮知見をいっさい捨てて、ただ「座ってろ」って三 二十一から言われた。