頭燃

2011.09.08 はれ

大阪と滋賀、どっちに住みたいですか? と聞かれたら鎌倉と答えよう。

先日、K先生といっしょに食事をしていたら、「いつ大阪へ帰ってくるのですか?」とのご質問。先生から年に2回はたずねられているかも。はやく大阪へ帰ってきてほしいと酒の席でおっしゃっている。

空が高い。 雲がない。月は半月からすこしだけふっくらしている。来週は満月。誰かと酒でも呑みたい気分。

雲がある空とない空、どっちが好き? 朝夕は涼しくなった。10月14日、15日の枚岡祭りにむけて感じる朝のはじまり。毎年、書いている。鼻の奥で、あの、なんだかよくわからない乾いた空気の匂いがして、半袖だとちょっとひんやりしてさらっとした感じの空気が腕や顔を包み込む。

祭りまでの朝が好き。今年はなんと金曜日と土曜日。行きたいなぁ。ほんと、すごいよ。地元に残った悪ガキたちはもう40歳。みんな、何してるかなぁ。

二十四節気、白露。露はまだかな。せめて言葉から涼をとりたい。第四十三候、草露白。露をみて物語を読み取り、風流を感じられるようになりたいとも思い、露をみて生成される摂理を説けるようにもなりたい。両方ともまだほど遠い。

16:00すぎに出発。19:00からF先生とミーティング。患者の診療進捗管理のデータベースを作成したので最終の打ち合わせ。あとは在庫管理。それに自由診療のシステム再構築。

大阪駅で途中下車。桜橋口の改札をぬけてディアモールへ向かって歩くとき、大半の足は家路に向かう。あるいはお店。このなかに孤独の人は何人いて、孤立の人は何人いるかな。たまにみかける通行人の数をかぞえるみたいにカチカチ押せたら心は休まるかもしれない。

孤独はひとりじゃなく、孤独と孤独はリンクできる。誰かが誰かの孤独へよりそえる。となりに座ってしゃべっているよりも二人で黙って大阪城から見える景色を飽きもせずずっと眺めているほうが静かで心地よい。あの人のように。

孤立はひとりだ。孤立と孤立はリンク切れで、アクセスしたら404のエラーが返される。ページが見つかりませんって。ページってその人のこと。誰かが誰かの孤立へよりそえない。

孤独と孤立は違うと思う。孤独へは、自ら踏み入れる。そこは静かで安らかでやわらかい。自分を律することができるようになれたらさらに心地よい場所だろなって想像してみたり。

孤立は、知らず知らずに誘われている。結局は自分が招いた結果なんだけど。気づいたときには、真っ暗で見えなくて、どこにいるかもわからない。孤立は無援と化学反応する。

自分にとって心地よいサウンドだけを聴けたらよいね。それって「聴けたら」ではなく「聞き分けている」んだな。iPod Touchから流れるアルバムは、私の耳に残る曲と残らない曲にわかれる。残る曲は好みであり、そうやって自分の好みを強化していき、ますます意固地になる。

聞き分けている。受け入れることと受け入れないことを仕分けしている。たとえ周りが身を砕いて話そうが、心の中は予定調和で満たされている。

正法眼蔵随聞記 四 一 学道の人身心を放下して

正法眼蔵随聞記 ちくま学芸文庫 P.235

「学道の人、身心を放下して一向に仏法に入ルベシ」。「思い切る」に尺度はなくて、ひとそれぞれの思い切りがあるんだろうけど、四の一の「思い切る」は、心身ともに「思い」を「切る」とおっしゃっていそうだ。

なにもかも捨てる。思うから一歩が踏みとどまる。あと一歩踏み込めば死ぬかもしれない場所にいるとき、思いがあるからますますしがみつく。なにもかも捨て去り、いっそ「ままよ」のほうがつつがない。

「度世の業より始メて、一身の活計に至ルまで、何にも捨テ得ぬなり」とつづく。無理だよ。それを捨てなさいと。

思い切られないし、何もかも捨てられない。それでいいんじゃない。それが人で、そんな人もあってもよいかなぁって。そんなふうに思えてきた。ただ、「それ」が甘えになってしまうし、逃げてしまっている。甘えること、逃げていること、をきちんとみずから認識できたらね。

何もかも捨てるってとても難しいんだろうけど、自分の状態を正確に冷静にみずから認識するのもミッションインポッシブルに近いと思う。