diary

こころはゆらゆらゆれているぐらいがやさしくなれる

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2011.09.10 晴れ

自尊心が強くて他人に厳しいのと、自尊心が強くて他者に穏やかなのがある。どっちがたやすく、むずかしいんだろう? どっちもたやすい? どっちもむずかしい?

勝敗にこだわって他人に厳しいのと、勝負にむきあって他者に穏やかなのがあって、ちょっと異なって、勝負からおりてルーザーに静かな眼差しを向けるのもある。

自尊心と組み合わせたら、自尊心が強くて勝敗にこだわって他人に厳しいふるまいが生まれる。そのふるまいは、見方をかえたら、「自分」を持っていて、「自分」はゆるがないのかもしれない。ガチッとしてる。

見方をひとつ変えたぐらいで「自分」を持ち出したらお粗末だ。いくつもの組み合わせがあって解釈が存在する。

なぜ人は答えを持つと奴隷になり、問いを持つと自由になるのか? – Togetter も二項対立の構図にしたらわかりやすく、わかりやすい修辞であればあるほどたくさんの人に受け入れられる。シンプルだからこそ、解釈は多義的に存在して、受け入れる側は「自分」なりに納得できる。

見方を変えるプロセスは問いをいくつも産み落とす。「こんな見方もあるよね、ああ、これもあるな」って感じで、見方をいくつもひらめいたら、心はゆらゆらゆらぎはじめる。

心はゆらゆらしはじめたら、見方のバランスを維持しにくくなる。そんな状態をSomething Elseの視座から眺めたら、「寛容」は「冷徹」であったり、「委譲」は「優柔不断」であったり、「調和」は「甘え」であったり、事象はどの面をむけるか判別できないほどコロコロと変化する。

サイコロは「6」を示しているんだけど、Something Elseの視座からは「1」(だっけ?)が見える。

コロコロ変わっていく境界線の上に絶妙な感覚でずっと立ち続けていられることを、ゆらぎってラベルを貼ってよいんじゃないかな、たぶん。

こころはゆらゆらゆれているぐらいが他者にやさしくなれる。

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