diary

新聞を読めば世界で誰もがいがみあっている

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2011.09.11 はれ

新聞をとっている、って他人にうっかりしゃべったら知性を疑われそうなフェーズへそろそろさしかっていそうだ。

40年前にJanis JoplinがGet It While You Canで歌っている情況からちっとも変わっていない。リリックは時代のフィルタをいともかんたんにくぐりぬけ、心をざわざわさせる。

声は”Wanna be”の声に意図的に変えられるのかな? ものまねじゃなくて。もし、かえられないとしたら声は誰かからの贈り物なんだろう。

自分の声をレコーダーから聞いた時の違和感にうろたえて、その時、覚醒して声の力に囚われる。ぼくはハスキーな声に mellow で好き。数個の「音」だけがしゃがれるハスキーな声の持ち主は、身近な関係の中からは聞こえてこない。いつもスピーカーから聞こえてくる。

声って意外と再生できない。

顔は記憶や写真を頼りに再生できるし、描き出す力に長けている人なら、そこから数年後数十年後を頭の中で描けるかもしれない。

声は忘れやすく、再生しにくい。あれ、あの人の声はどんなだっけって戸惑いはしばしばあって、「しばしば」を体験したら恐怖がやってくる。大切な人を失ったとき、声もいっしょに失う。だから、録音は宝物であり時に残酷なんだ。

いつまでも忘れさせない声は、それ自体が唯一無二。

日曜日の阪神百貨店の地下を歩いたら、情報処理がオーバーフローした。売場の声と消費の声がミキサーでかきまぜられて、笑顔がブイみたいにあちこちでプカプカ浮かんでいて、何を買って、どんな売り方して、とか、洋服をすれちがいざまに眺め、小さな子供をつれている親子の仕草をちらっと見たり、地下街はデザインの原石だらけで、処理できないビットが躍動している。

オーバフローの原因は、それじゃなくって、東北の空間が頭によぎった瞬間、自己満足の感情が起動したから処理できなくなっただけで、阪神大震災のとき、神戸の方々は大阪に対して強烈な違和感を抱えて移動していたんだろうなぁとあらためて認識して、想像は時間と空間を飛び越えられても、生活は半径わずか数メートルの空間です、そう、つくづく思う。

時間と空間を浮遊する感覚と生活の空間で賄っている感性との折り合いがつけられなくて、折り合いの仕方をいまだ知らなくて、未熟な自分の精神構造を認知して、自分の声をレコーダで聞いたあの狼狽がくる。

ざわめく。

新聞を読めば世界で誰もがいがみあっている

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