瞋恚

2011.09.15 晴れ

ι(´Д`υ)アツィー

昨日、フリーランスのことを書いていて、もう一つ思い出した。自分を痛めつけないことを学んだ。

たとえば睡眠。フリーランスになって間もない頃、生活のリズムはめちゃくちゃになった。朝と夜の逆転。明け方まで仕事して、昼前まで眠り、ごはんを食べて、仕事して、夜ごはんのあと少しだけ眠って明け方まで仕事とか。ちゃんと寝る日もあったり。とにかく睡眠の時間と就寝起床の時間がバラバラ。まったくさだまらない。

何が起きたか?

食事がめちゃくちゃになった。何も起こっていないのに不安に襲われる。わけのわからない不安におびえてストレスフル。人と会うのが億劫。

で、何が起きたか?

上半身と臀部と太ももの一部に大量の湿疹ができた。数ヶ月続いた。治ったと思ったら発症。繰り返し。病院へ行かなかったので病名を知らない。お風呂にはいれない。しみて痛すぎるから。うめき声をあげてはいっていた。

食生活がめちゃくちゃだから体重はふえていく。不安とストレスの原因はわからない。イライラする。人と会っても楽しくない。その原因を相手のせいにする。だから約束をとにかく断った。数年間でたくさんの人を遠ざけた。辛抱強く待ってくださった人は、「あの時は」といまでも話してくれる。

一度失った信用をとりもどせない。今でも、あの時の印象をひきづったままの人はいる。

とにかく不規則な生活パターンに憧れるというか、夜中にひとりで何かしているときの高揚感はかえがたい。あの高揚感を味わうと、昼間の仕事がはかどっていないと錯覚する。夜中の孤独感は快楽と軫憂が両立している。

結局、そうやって「自分を痛めつけている」とあとから理解できた。怒りも同じ。

先日、電車の優先座席で50,60代の女性が通話していた。昼間の車内にひびく一方通行の声。近くの人はみんな見ていた。私もとても不愉快でだんだん腹が立ってきた。「ああ、怒るな」と自制しようとするけどなかなかおさまらない。

そしたら、男性がひとり、ものすごい大きな声で「かいたぁーるやろ、みえへんのか、あほんだら」と女性に怒鳴った。「なにかんがえとんねん」やら罵声と罵倒が続いた。河内弁の罵倒はえげつない。女性は平静を装って電話を切ったあと、みんなから注目をあびて、明らかに不愉快な表情をうかべて前を見つめていた。

結局、そうやって「自分を痛めつけている」。

「怒り」を発生させた私は、最後まで「怒り」と付き合わなければならず、そして、「怒り」を自分で処理しなければならない。そのプロセスは疲れる。貴重なリソースを使いたくない。もったいないと思うようになった。だからとにかく「怒らない」ようにトレーニングしている。

私ひとりで解決できることなら怒ってもよいけれど、ほとんどの怒りは、誰かと交わったり、時に交わらなくて、赤の他人の言動に怒ったりする。かつてはニュースを見聞してイラッとした。一時期、あることで怒りがあって、文字どおり、怒りを通り越してあきれて、今では完璧にスルーできるようになった。

フリーランスになって、「自分で自分のことを痛めつけて不安がらせている」ことを学んだ。

正法眼蔵随聞記 四 四 学道の人は尤も貧なるべし

正法眼蔵随聞記 ちくま学芸文庫 P.243

「財有る人は先ず瞋恚恥辱の二難定ツて来るなり。財有れば人是レを奪ヒ取ラんと欲ふ。我レハ取ラれじと欲る時、瞋恚忽に起こる」とある。

狙ったわけじゃないけれど、四の四は、瞋恚についてふれている。三毒・十悪のひとつ。自分のこころにさからうものをいかりうらやむこと。

物を持つことは、物だけでなく、関係と感情をいっしょに持っている。関係と感情を捨てきれないから物を抱える。

最後の文章は激烈。人は自分を殺しても、自分は仕返しもしまいと決意すれば、用心のしようもなく、いつでも安楽であるとおっしゃり、このロジックは四の四だけを取り出しても読み解けないと思った。

自分のなかに安定を招き入れるということは、外から眺めたら常に不安定な状態に見えているかもしれない。